僕が特別支援学級の担任だったころの話だ。
その年は8人の担任だった。8人とは少ないように感じるがなかなかの数だ。性別も年齢もはたまた課題も違う8人がそれぞれバラバラの場所で学習するワケで、その子たちの1日を担任として把握することはなかなか難しかった。
僕の働いていた学校では、特別支援学級の子たちはそれぞれの現在の学力や課題によって自分の在籍する通常学級のどの授業に参加するかがバラバラだった。しかも、時間割は都度変更の可能性もある。なので、予定を組んでいても変更が入り、個別のアプローチがしにくい部分があった。そんな状況でみんなそれぞれでSOSを出すと人がいくら居ても足りないなと思う時が初めのうちはよくあった。
「先生わからん。」
「○○先生来てください。」こういう言葉が飛び交うこと自体は悪いことではない。出来ないことを出来ないと伝えることでSOSを求めるスキルも大切なスキルだ。
でも、どう見たってすでに出来ることばかりだ。僕は最初のうちついつい一緒にやってみようと提案していた。するとやはり一緒にやると出来るのだ。
僕は色々と状況を変えて試してみるようになった。
すると多くの子たちが感じていた『出来ない!』が発生する状況は『孤独感』から来ているのではないかという仮説を立てることが出来た。
教え方や取り組み方、教材による工夫など色々試行錯誤してもなかなか減らなかった『出来るのに出来ない!』と伝えるSOSはあることでピタッと止まったのだ。
それは『背中に手を置く』という方法だった。
どんなに自分では無い子の指導をしていることがわかっていても、どの子もそれを遮って「先生わからん。」とは言わなかった。背中に手が置いてあるただそれだけのことで子どもたちは僕の存在を認識して最後まで自分の課題に取り組んでいたのだ。
僕はその後、色々な場面、学年でこの『存在を伝える』という方法を試したが、一定の成果が確認された。遠くに離れている時にはキョロキョロとなかなか授業に集中出来ない子も隣で教科書を指で押さえてやれば教科書から目を離さなくなったし、全然わからないと言っている子に読んでみてと声を出させてからやってみてと言うと出来ていることもあった。
問題はその先へ
つまり、僕が見つけた『居る』ことで作る安心感だけで多くの子が出来ないを解決することが出来た。
では、今子どもたちの横に誰か居るのか。という話だ。
僕たちはずっと目の前の『子ども』の傍に居続けることは出来ない。僕が居るから安心しなよ。何て言ってはいられない。子どもたちはしっかり大人になっていくからだ。そして何より日本の大人は子育てに優しくない環境で生きなければいけない。
40人の担任でも、大人がみんなフルタイムで働いていても、どんな仕事についていても『居る』を提供し続けられる環境に日本は無い。
これは明確な事実だ。僕がこんなことが大事だよ。と言ったって物理的に難しいと言う人がたくさんいるのもよくよく分かっている。
だからこそ、僕ら大人は自分が明るく楽しく居られるように息抜きしながら、たまにできた時間で『居るよ。』と伝えられるようにしなくてはいけない。
誰かが決めた、根拠も無いいつまでも見直されない「こうしなきゃいけない。」「みんなこうしているのに…」に追い回されて辛くならなくても人生は結構上手くいくものだと僕は思っている。
コメント