挨拶指導が『消す』あいさつの距離感

教育

 最近、施設を運営して間もない頃、あることに気が付いた。
 子どもたちがほとんど『あいさつ』をしないのである。施設のインターホンを鳴らして、『どうぞ~』と返事をすると、さっさと施設に入り、自分の学習を進めている。約束事はきちんと守っている。手洗いうがいだってする。でも、『あいさつ』はしないのである。下手をすると何も言わずに入って、何も言わずに帰る子もいる。
 うちの施設は、ありがたいことに今のところ、全員が望んでうちの施設に来たいと言って来てくれている。ある意味、僕の展開する『教育方針』には賛同してくれている部分が大きいなという手ごたえはある。
 近くに行って話しかければみんな素直に答えてくれる子ばかりだ。でもなぜか、あいさつはしないのだ。
 今回は、『学校教育』にまつわる『挨拶指導』に目を向け、僕の考える『あいさつ』について書いてみようと思う。

挨拶指導が求める『あいさつ』

 僕は、『あいさつ』は結構きちんとするように心がけている。
 その理由には、下心があって『あいさつ程度のことで自分の評価を下げたくない』という気持ちが強いからだ。
 ただ、結構これが逆に得をしていて、僕の髪の毛は金髪で派手な格好をしていたため、世代の離れた方からは、一瞬、相手が戸惑っていることがすぐにわかった。
 そんな僕が『おはようございます!』とすれ違う近所の人とあいさつをすれば、一瞬びっくりしたような顔をして笑顔で返してくれる。
 また、学校で働いていた時にはよく学校に対する意見で『学校の先生なのにあいさつをしていない人がいる!』というようなアンケートを見かけることがあった。
 これには結構疑問もあって、どのシーンを切り取っての話だろう?と感じていた。
 学校という場所は、子どもと接する場所でその時々、何が起こっているのかわからない場所だ。
 もしかすると子どもと喋ったり、遊んだりしていて何か事情があったのかもしれない。それでも『教師』が『あいさつ』が出来ない時があれば、すぐにやり玉に挙げられる。
 だから僕は、これでもかと言うくらい『あいさつ』には敏感になっていた。

 このように『あいさつ』には結構気を遣う僕ではあるが、『学校』でよくある『挨拶指導』的なヤツには『違和感』を持っていた。
 ・大きければ、元気でいい挨拶
 ・挨拶が無いと『怒られる』
 ・大きな声が出せたら褒められ、声が小さいと肩身が狭い
 ・延々と続く大きな声が出るまでやり直す文化
 これを『教師』が徹底するとどうなるか?
 確かに子どもはこれらを繰り返し、徹底されればきちんと『声』に出すだろう。
 特に、厳しい教師の前では徹底して大きな声で『挨拶』をするだろう。
 でも、これを繰り返した『子ども』が本当の意味で『あいさつ』を大切にする人間に育っていないことが、かなり多く存在している気がしている。 

僕が大切にしている『あいさつ』の良さ

 僕は『コミュニケーションの入り口』としての『あいさつ』の良さをすごく大切にしている。
 『おはようございます!!』と交わしたあとの一言や、『あいさつ』ついでに交わすちょっとした会話こそ、人と人をつなぐとても大切なものだと考えている。
 僕は、子どもには正しい『あいさつ』の言葉を大きな声で言わせることに厳しい声をあげて実践させることよりも、『あいさつ』することで人と繋がることのできる喜びを経験させることでその良さを『体感』させるべきだと思っている。
 大きな声を強いるやり方では間違いなく繋がることのできる喜びを得られるものにはならないと思う。

子どもがする『あいさつ』と相手との『距離感』

 僕は子どもの様子を見ていて気が付いたことがある。『言わされ挨拶』が得意な子たちは、自分たちの身近な人にあまり挨拶をしないのだ。
 近い『距離感』でいられる人に向けての『挨拶』は照れくさいのかほとんどしないのである。
 確かに僕は施設に通う子どもたちとの距離感はかなり近めである。
 もしかすると、子どもたちは『挨拶指導』を繰り返し受けて来たことによって『あいさつ』は自分と少し距離の遠い人と『誤学習』しているのではないかとさえ思ってしまう。
 それでもやっぱり、会えば『あいさつ』別れに『あいさつ』を繰り返し、『人として繋がっていたいな』と僕は思う。
 僕の大好きなレゲエのアーティストや最近仲良くなった外国人の友だちは、たいてい握手や拳を当てるような『あいさつ』を交わす。
 僕は型よりもこういう瞬間に生まれる『感情』や『温かさ』を伝える教育者で居続けたいなと思っている。

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