危険な入り口?ドリルの答えを回収する末路

教育

 今日はちょっとエグめのタイトルなのだが、結構シンプルに危険だなと思っているので書いていきたい。

 お勉強が苦手だ。テストで点数が取れない。という子に共通して見られる特徴がある。
 それは『自分が解いた問題の答え合わせをしない』という行動である。ある程度自分で勉強に取り組んだことのある人なら当たり前にわかることなのだが、これが結構多かったりする。もちろんこれでは良くないと必ず答え合わせをやった方が良いよ。と伝えて、一緒に答え合わせをすることを繰り返しやっても、声を掛けなくなるとやらなくなる。つまり、完成された文化はなかなか転換することは難しいのである。また、これは正確にデータを取ったワケでは無いが、勉強が苦手な子ほどなかなか新しい『行動』を受け入れようとはしない。きっとその子の文化の中で『勉強が出来ない』ということで起こるマイナスよりも、それに繋がる『行動』を取った時に得られるプラスの方が大きかったのだろう。ましてやこの状態を放ってきた子が『中学生』になって変えるのは相当なエネルギーを使うことだと知っておくことが周りの大人の役目だと思う。

 そもそも『自分の解答したことが良いのか悪いのか』にも気にならない状態を想像したい。
 例えば、みなさんがクイズ番組を見ていて夢中になって考えている時に突然隣の人がテレビのチャンネルを変えてしまった時に何も感じないだろうか?僕はきっと腹が立つ。自分で答えを出したい気持ちにもなるし、場合によってはヒントも欲しくない気持ちになるかもしれない。これはクイズだからそうなっているのだろうか?きっと違う。興味のあることを知りたいと思うのは、クイズだろうと学校で習う学習だろうと同じような気持ちになるのではないかと僕は思っている。自分のやったことに対してリアクションが無いことは僕にとっては『寂しい』『つまらない』『無駄なこと』に繋がるようなことだ。

 では、なぜこんなことが起こるのだろうか?
 僕はその原因のひとつに、小学校の低学年段階でドリルに付属されている『答え』を回収する文化があるからでは無いかと思っている。
 確かに、小学生の特に低学年の子どもにとって見比べることすらなかなか難しいタスクであることは間違いない。だからこそ、一緒に確認をする時間が担保される必要があるのではということは理解できる。別にそういう時間はたくさん取れば良いと思う。一斉に答え合わせをすることがあっても良いと思う。でもそれが『答えたすぐあとに来ない』ことに問題を感じている。
 幼い子ほど興味は色々なところにあちこち行って当然だと思う。そんな子どもに自宅で取り組んだ問題の正解をその場ではなく半日ほど経った時に、しかも授業の初めのおまけのような雰囲気の時間に、場合によっては当番的な活動の一環として当てがった子どもが淡々と進めていったって、もうその頃には『答え』なんてどうだって良いに決まっている。

 そういうことを繰り返して生まれるのが『問題には取り組むのに答えは興味の無い子どもたち』なのではないだろうか?

 『自分の状態』をはっきりと知ること。これは勉強を進める上でとても大事なことだ。これは『点数』を眺めていても全くわからない。大事なことは今の段階で何がわかって何がわからないかということを本人が知ろうとするということであり、それを繰り返すことが『できるようになる一番の近道』になると思う。

 多くの『答え回収』の理由としては、「答え合わせがまだ一人で出来ないから」「答えを丸写しにするズルをしてはいけないから」というものだと思われる。(もちろん、僕の知らない素晴らしい意図があれば教えて欲しい。)
 だけれど、そもそもやらない限りは出来るようになっていかないし、一人で学ぶことや学ぶ習慣を付けることはどの学年の子であっても必要な営みだと思う。それに、大前提疑りから入る教育によってより伸びる可能性のある子の『意欲』を摘むことになるなら辞めた方が良い。もっと言えば『ズルい行動』を取る子は年が大きくなるにつれて増える印象が僕にはある。

 僕の思う『教育』の一番良くない慣習は「問題が発生してから支援する」というところである。特別支援教育にしても、学力支援にしても、予防的に『ルール』や『取り組む』をタイムリーに評価する文化が少ないと感じている。
 もしそこに『業務が膨大でそんな暇が捻出出来ない』というのであればすぐに見直す必要があると僕は思う。

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