スリッパ指導に掛けるコスト

学校

 僕が勤めていた小学校には、トイレにスリッパがあった。
 小学校や学校でトイレにスリッパがある学校は珍しくないだろう。
 今やどこの学校もこれを整然と揃えるために『写真』や『言葉』を使って巧みに「子どもの揃えたくなる。」を引き出そうと努力している。
 褒めてみたり、やり直させてみたり、あの手この手でスリッパを揃えることに尽力している。
 ただ、そもそもなぜスリッパは揃えなくてはならないのだろう。もちろん、不特定多数の人間が使うものは整理整頓されているのが良いのは分かっている。

 僕は結構変なヤツなので、『理由がハッキリしないこと』にはそこまでのコストを割くことが出来ない。『目的』がきちんとあれば、そこに力を注ぐことはもちろん出来るのだが、なぜそんなにスリッパにみんなが一生懸命になるのかわからなかった。
 そんなことより、体育倉庫だとか、特別な教室など大人も一緒に使うはずの場所が乱れていることの方がよほど問題だと思っていた。

 そこで僕は提案した。
 『今日からトイレのスリッパは、使う人が使う前に「さぁ今からスッキリするぞ!!」と思いを込めて自分で揃えることにしたら?』
 そうすれば、誰かが仮にスリッパを揃えてくれていた時に
「うわっ誰か揃えてくれてるじゃんラッキー!」ってなるし、自分が揃えた日にゃ「どんなもんだい、俺は次の人のために揃えてやっておいたぜ!」ってなるし、仮にバラバラになっていてもみんな何も気にしなくない?
 揃えているのが『当たり前』になればなるほどみんな『人のために生きる社会』になる気がする。
 そして、何かの事情で揃えられなかった誰かにまで「けっ、トイレのスリッパも揃えてないなんて!」と苛立たずに済む。

 もちろん、却下だ。
 でも、僕はその位のゆるさを愛して生きている。

 本質はそこではない

 僕は、別にトイレのスリッパはバラバラにしようと言いたいわけではない。
 ただ、学校で過ごしてみるとよくわかるのだが、この『トイレのスリッパ』に対してものすごくこだわる教育者はすごく多いのだ。何度も言うが、僕は別にこのマナーが必要ないと言いたいわけではない。実際に僕だって敢えて揃えることは仕事上よくある。
 でも、僕たち教育者というのは『重箱の隅を突いて出来ていないことを出来るようにさせる』ことが仕事ではないと思う。あくまでも集団の中で「こうしておくと結構気持ち良いよね。」というような投げ掛けをする程度に言いたいことを抑えつつ、より視野の広がる『問題提起』が出来るかが勝負のカギだと思っている。物の見え方は人によって様々だ。スリッパをバラバラにする子、マスクをしていない子、靴の後ろを踏んでいる子、名札をしていない子にもそれぞれに『ストーリー』があるのかもしれない。そこに意識を運べる教育者でこれからも居続けたい。

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