まず、定義を揃えておきたい。今日書く『勉強』とは、『学ぶ』過程全体を指して使っている。
新たなことを身に付けるまでの過程全体を今日は『勉強』だと思って書こうと思う。
息子が1年生の時、長男が漢字ドリルの宿題をして少しイライラしていた。何だかお腹も痛いと行ってトイレにも駆け込んでいた。聞くと自分にはどれだけ頑張っても『丁寧な字』が書けないという。ノートを見てみると十分『丁寧な字』が書けている。
ただ、『字形』を整えるために赤で先生から直しを受けている。
少し息子と話すと「俺にはどうせ丁寧な字なんて書けへんから…」と悲しげに話している。
ただ、このやり取りには実はミスマッチも含まれていて、『直しがあることは良くない!』と思っている息子と『ここを直せばもっと良くなるのに!』と励ましの意味を込めた教師の心遣いがミスマッチしている。
僕は、あえて息子と二人きりになって4つのことを話した。
①『丁寧』と『上手』の違い (目指す姿の共有)
②何をもって『丁寧』だと言えるのか (基準作り)
③『注意』や『直し』に込められる愛 (修正することの意味)
④勉強する目的
長くなってしまうので、④の勉強する目的について少し書いておこうと思う。
教師時代から、僕の思う勉強の目的は一つだった。
もちろん、教科や内容によって微妙に違う部分もあるのだけれど、大きな柱は一つだと思っている。
『自分を好きになるため』だ。
跳び箱を跳べるようになることだって、丁寧な字を書けるようになることだって、意思を正しく伝えることができるようになることだって、立位を取れるようになることだって、突き詰めれば、自分を好きになるために頑張るのではないかと僕は考えている。
だからこそ、『勉強』をしていて『否定されたような気持ち』になるような『やり方』『捉え方』をしてしまうならばまずそこから『離れる』という選択をすることは決して悪いことではないと思っている。
僕は、結構たくさん特別支援教育について学んだ。世界にはかなり柔軟にカリキュラム設定されている国がたくさんある。だが、日本の教育では決してそれは一般的ではない。
『学校』で言われていることは『従うべき内容』になってしまいがちだし、それが『できなかった』時には『自分をダメなヤツ』としてしまうか、『学校』なんてしょうもない場所と『学ぶこと』から離れてしまうことに繋がり兼ねない。
自分を好きになるってかなり難しい。上手くいかないことだって多いし、ついつい誰かと比べてどうだとかこうだとか言ってしまいそうになる。でも、それは決して『正解』ではないはずだ。
苦しみながら、嫌々言われた方法で続けることで『諦めない自分』までたどり着ければいいが、決して全員がそうはならない。
僕はこれからも『自分のことをちょっとでも好きになる』ために『勉強』をする子たちを支えていきたい。
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