学習性無力は本当に怖い

教育

 僕は以前からさらなる子どもの理解を深めるために、教師の時以上に積極的に勉強会や研修会に参加するようにしている。
 一番大きなところで言うと、『公益社団法人 子どもの発達科学研究所』『学びの発達アテンダント』の認定講師を取得した。これは単なる法人の認定資格であるもののかなりハイレベルでめちゃくちゃ勉強になった。これからそのスキルを使って広く誰かの役に立てるような動きを取っていこうと思うわけだが、その中で長年ぼんやりと考えていた。「意欲って本当に大切だな。」と痛感した話を書きたいと思う。

 みなさんは、学習性無力という言葉をご存じであろうか。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象

wikipedia

 インターネットでは、色々な例が書かれているのだが、簡単に例をまとめると、
①動物をケースに入れる
②その床に電流を流す
③レバーを下げると逃げられる仕組みにする
④すると、動物は電流が流れてもレバーを下げて逃げることを学ぶ
⑤だが、これを意図的にレバーを下げても逃げられないようにする
⑥今度は、レバーを下げても無駄だと学び、仕組みを戻しても逃げることを諦める…

 勘の良い人にはもう気が付いているだろう。
 同じことが『勉強が苦手な子』『失敗の続いてしまう子』には起きていないだろうか。というのが僕の心配事だ。
 今僕は仕事で何人もの小中学生の学習を支援している。もちろん、それぞれに課題は違うし、状況も違う。
 ただ、僕が気にしているのはそれぞれの子どもを取り巻く環境の中に『学習性無力』を生み出してしまい兼ねない仕組みがあるのかもしれないということだ。
 出された課題に取り組んでも目に見える評価は得られず「当たり前のことをしている。」と裁かれ、膨大なテスト範囲にいつも同じような計画のアドバイスどうやって取り組めば良いかもわからぬままただ闇雲に学習に取り組んで、結果は散々だった何てことはたくさんある。それを「ちゃんとやっていないからその結果になるんだ!」と罵倒し、次のテストに奮起する子は何人いるのだろう。

 大人はよく「わたしだって教えられたことは無い。」と言って子どもが困っていても具体的な支援は何もしないで『結果』ばかりを断罪する。ただ、大切なのは、子どもが何かのきっかけで子どもの中に『学ぶ意欲』が芽生えることなのでは無いかと思う。
 何の自慢にもならないが僕は『教師』の仕事をする中で毎日のように自分の知らないことに出会ってきた。月の動き方だって、三角形の合同の証明だって少しずつわかってきたし、今だってわからなければ調べれば良い。能力は無いが『意欲』には満ちている

 子どもの『学び』に携わることは本当に根気がいる仕事だ。
 でも、教えたという『事実』を作ればよいのではなく、きちんと『学んだ』という実感を作ってやらなくてはならない。未来のために『教育』は本当に大切なことだと僕は思っている。大切でないなら、『義務教育』なんかに税金をつぎ込んでやる価値なんて全く無いはずだ。
 子どもたちの『環境』に僕ら大人が出来ることはまだまだたくさんあるはずだと最近よく思っている。

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