本当に自由が欲しいのか?

教育

 家庭学習応援施設My Placeは基本的に「自由」な教育施設として運営しています。

 僕は小学校で働いている時からたくさん子どもたちの口から「自由が欲しい!」という言葉を聞いてきました。ただ、最近この言葉をもう少し分析するべきではないかと思っています。

 多くの子が語る「自由」は単なる「不自由からの解放」です。結構多いのが不自由から抜け出して無茶苦茶していても怒られずにいたいというものです。ただ、僕たちが愛してやまない「自由」は、明けても暮れてもそれに時間を費やしても飽きないくらいの幅のある「自由」です。

 何が違うのか?今日は少しそのことにふれたいと思います。

自由か混沌か

 我が子のことを少し書きます。うちの上の子は未就学児の時本当に子育てに苦労しました。僕は当時学校で働いていた為ほとんど一緒に過ごすことが出来ていませんでしたが、それでもハッキリとわかるほどのやんちゃ具合でした。

 川を見つければ冬だろうと入っていくし、部屋の中でシャボン玉はするし、引き出しを端からひっくり返して回るなんて日常茶飯事でした。他人の子どもがやっていればニコニコしていられても日常毎日こんなことが続くとやっぱり親はしんどいものでうちの奥さんも疲弊していました。

 最初は「ダメだよ!」くらいに止めていてもある点を越えると諦めるしかないような雰囲気でした。それこそ日常は混沌(カオス)でした。そんな毎日が続く中「とうとはいっつも怒ってばっかり……」なんて実家で呟いていた日には、ため息ものでした。

 では今彼はどんな毎日を過ごしているか?

 めちゃくちゃ真面目です。超が付くほどめんどくさがりの僕からしたら考えられないほどの僕からは考えられないほどのきちんとした性格です。ただ一方で彼は超自由人です。

 朝6時に起きて、支度をしたらすぐに必要なことを済ませて毎朝30分ほどゲームをやりますし、学校から帰ったあとの自分の生活は自分で決めます。一人で決めあぐねた時には必ず大人に相談して解決策を作ってはゲーム、ボードゲーム、お絵描き、公園、読書とひたすら好きなことをして生きています。毎日日記を付け、隙間時間にはことわざ図鑑を読んでいます。正直親の僕からしても彼の興味は不思議です。笑

 彼は完全に自由を扱える少年へと成長していきました。

 僕は子どもの成長はカオスを経て自由の価値を知り、その自由を使って深いところへのめり込んで行くのではないか?と仮説を立てています。

混沌から自由へ

 僕はこのカオスの状態はコップに水を入れることで説明するとわかりやすいのではないかと思っています。

 僕たちは何事も初めて出会うものはよくわからない無茶苦茶状態でカオスの状態を経験します。この状態を経験していくとコップに少しずつ水が貯まっていきます。

 すると次第にコップがいっぱいになってもうこれ以上入らない状態になる瞬間に「飽きる」と感じるのではないかと考えます。

 ただ、この飽きるを経験したからこそコップは溢れ出て、「もっとたくさんやりたい!」「もっと上手になりたい!」「さらに成長したい!」という夢中になる状態「自由」を手にした状態へ向かうのでは無いかなと思っています。魅力のあるものならコップが溢れようが、こぼれようがガンガン水を入れたくなりますし、自由に楽しみます。

 ですが、このカオスの状態で水が注がれている時に大人の介入があり水が注がれることがストップしてしまうとどうなるでしょうか?きっとコップに注がれた水は逆さまになり一気に空になるのではないかなと思います。

 カオスは必ず飽きます。だって面白くないので。一見面白く見えるのはわかりますがそれは単に新奇性による魅力であって本質的な魅力では無いと思います。例えば、ティッシュの箱からティッシュを出し続けた子が大人になって自分のお金でティッシュを買って自由に箱からティッシュを出し続けているなんて話は聞きません。でもそれは、誰かに止められているからやらないわけでは無いけれどまぁほとんどやらないですよね。それより面白いことたくさん知ってしまうと。

自由を扱えない子どもたち

 僕たち家庭学習応援施設My Placeは子どもたちに徹底して「自由」を与えます。ただ、半分以上の子はこの自由を上手く扱えずにカオスのままに「成績が上がらない。」「やることがない。」という理由で辞めていきます。ここに関してはそのファシリテートを僕たちがまだ上手に出来ていないということがある一方で「今の社会が許してくれない」「大人が待ってくれない」という理由もあるのではないかと思っています。

 授業やテスト、課題をこなすことが精いっぱいの子どもたちにはカオスから自由を待つ余裕なんて無いかもしれませんし、毎日忙しい大人からすれば一刻も早く自分で勉強する子に育ってもらって自分で進路決定してもらう方が安心だと思います。

 ですが、こんな世の中だからこそあえて僕たちはこのカオスから自由を手にする子に価値を置いて教育を進める必要性を感じています。

 1本7秒程度の動画を何時間も見て、一日中ただ見るだけの動画の世界に入り浸りを繰り返す子はなぜ生まれるか?

 コップがいっぱいになる前に大人の介入で空っぽにされていつもコップが空だからでは無いでしょうか?

 もちろん教育的な介入は必要です。コップを空にするのでは無くさっさとカオスを抜け出せるようにもっと面白い世界をチラつかせてくれる環境や大人の存在です。

 しっかり飽きるまでやる。僕たちが教育者が考えるべきはこの視点なのでは無いかとふと思う今日この頃です。明日からは4月。新たな年度の始まりです。とことんコップが溢れるような関わりが出来る場所になるといいなと思っています。

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