そのゲームはフェアか?

教育

 My Placeは学習塾ではありません。

 これは、新しく利用する方全員に話していることだ。それでもやはり子どもたちや、お家の人の中には『塾』という印象は残っている。あくまでも真剣にやっている『塾』や『家庭教師』の方々へのリスペクトを込めて僕らの仕事は『塾』ではないと言っている。それでも、うちに通いながら公立高校の入試を目指して勉強を進めている子はいるし、実際に去年もいた。
 だが、僕は公立高校の試験(特に兵庫県の)は決してフェアな試験でないなと思っているところがある。僕が学習指導に特化した『塾』に舵を切れない理由がいくつかあるが、この『フェアでないゲーム』に対する疑問がいつまでも消えないから、純粋にそっちに向かえないという気持ちがある。今日は僕のモヤモヤをここに書こうと思う。

内申点がフェアじゃない

 兵庫県の特にMy Placeのある第2学区では公立高校へ進むために必要なものがある。
 それが内申点である。この辺りの内申点は以下の計算式で構成されている。
国・社・数・理・英 →5段階評定×  4倍=20点×5教科  =100点
技/家・美・音・保/体→5段階評定×7.5倍=37.5点×4教科=150点
 合計250点満点である。
 それぞれの受験生はこの持ち点と第1志望ならそこに20点を加算、当日5教科試験の点数との総合点で合否を決めるわけだ。
 内申点は、それまでの学校生活で積み重ねてきた成績を反映したものなので、たった1度の試験の成否だけで決めるような仕組みでなくなることが受験生に取って救いのように感じられるが果たしてそうなのだろうか?
 この試験はあくまでも『合格者』をきちんと人数で切るための『選抜試験』である。
 つまり、ある子は合格し、ある子は不合格になる。そこには情は入らない。『点数』を取ったものが合格するわけだ。つまり求められるのは『フェア』であるということだ。

 だが、この内申点、一見日頃の努力の積み重ねであるというように映るが実際はそうなっていない気がする。

 例えば、昨年度センター試験が大学入試共通テストという名称変更と共に大改革が行われようとした。何年も準備に時間を掛けていたはずがここで大きな変更とされる『記述式』試験の導入は断念された。理由は、採点者によって正誤が微妙に変わることにより、受験者に不利益があってはいけないからだ。これはごもっともな意見かもしれない。『選抜試験』に使われるような『試験』である以上公平性を担保することは必要不可欠である。

 一方で、子どもたちの内申点はと言うと、学校によっても、先生によっても求められるものが全然変わってくるようなルール設定になっている。受験者全員が同じような試験を経てその結果が持ち点になるならば公平だと言えるが学校によって定期試験は様々な作りになっている。これは無理も無い話で、定期テストである以上同じ範囲で試験を近隣の学校で合わせることは出来ないからだ。本来は絶対評価であればこのくらいの結果を出せば評定がいくつくらいと予想も付くのだろうが、学習内容が違えば当然微妙に評定も変わってくるものである。提出物を出せば何点で、手を挙げれば意欲が高くなるみたいな評価を下す先生だって未だにいるのが現実だ。そんな人たちに託された『内申点』なんて公平でなくなるに決まっている。

 それに加えて、現状多くの子どもは当日の学力検査では力を発揮できない子が多くいる。それでも合格できるということはいかに持ち点である『内申点』の実質的な比重が大きいかがわかるだろう。

アンフェアだと理解して進む 

 僕は何もこんなゲームアンフェアだ。意味が無い。と言いたいわけではない。
 願いは2つだ。
 1つ目は、こんなアンフェアなルールのゲームでもなお大きな顔して『成績を人質に取って脅してくるような人を信じるな。』ということだ。どの子にとっても『学力』と向き合うことは必要なことだ。自分の将来のためにどんなことをどんな場所で学びたいかは真剣に考えるべきではある。だからと言って、応援したり、励ましたりしてくれるならまだしもそれを理由に不安にさせてくるような人のことを信じてはいけない。あくまでもどんなことに力を入れて、どんな風に自分の未来を切り開くかは子どもに主導権があるに決まっている。
 2つ目は、こんなアンフェアなルールで進むゲームぐらいのことでもっと大切なことを捨ててはいけないということだ。成績が伸びずに行きたい高校には行けそうも無い。勉強のやる気が起きずに家族にも学校の先生にも小言を言われる。本当は学校には行きたくない、行けないくらい苦しいのに『内申点』のために無理して登校して自分の心をボロボロにする。こんな話を至る所から耳にする。その結果、学ぶことが嫌い。すべてに生活が止まってしまうなんて話だってある。

僕たちにはどうすることも出来ないのだろうか 

 僕たちは自分の住む場所を自由に決める権利がある。とは言え今の仕事や色々な事情により限界があるのも事実だ。
 どれだけ正しくたって、『学校』や『受験』の実際を決めるのは一部の人たちだ。僕らにそれ自体を変える力は微塵もない。でも、とりあえず『声』は上げてみるべきだと僕は思っている。『声』が上がらないはルール設定者の中では『存在しない事実』になってしまう。
 ただ、それでも『声』が届かない時には「それが全ての価値ではない」と割り切ることも大切だと思う。僕らが本当に実現すべきは「積極的に幸せに生きていけそうな方法を探る」ということだと思う。My Placeはそれぞれの生き方をサポートできるような場であり続けたいと思う。

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