比べてみよう平成と令和

子ども

 僕は昭和60年生まれだ。記憶があるのは平成くらいからだし、小学生時代は『平成』の子どもとして過ごした。対して我が子は平成の終わりに生まれ現在小学生『令和』の子どもとして過ごしている。僕は「昔は良かった…」などと後ろを向いて生きる気は無い。逆に今の子どもたちを羨ましく思うことも多い。今日は自分の子ども時代を振り返り我が子の生活と比べてみることで『今の子ども』への理解を頭の中で整理しようと思う。

曜日の感覚 

 僕は完全に曜日をテレビで覚えていた。
 月曜日「クレヨンしんちゃん」火曜日「特に見るものが無いからサザエさんの再放送」水曜日「ドラゴンボールのちにアラレちゃん」木曜日「スーパーマリオスタジアム(マリオのゲーム番組)」金曜日「スーパー戦隊シリーズ(当時は夕方やっていた。)」土曜日「幽遊白書」そして、日曜日は夕方6時くらいからアニメ4連発からのごっつええ感じ。とまぁ記憶は曖昧だが、淡い記憶を振り返ってもほぼテレビを見て育った。これ以外にもバラエティやドラマとにかくテレビを見ていた。そしてそこで仕入れた『情報』を小脇に携えて学校に行って友だちと話すことが楽しくてしょうがなかった。
 一方で今の我が子の姿を見てみよう。テレビはほぼ見ない。彼らが絶対に見るテレビは今や存在すらしていない。自分の見たい時に見たいものを見ている。実に主体的な生き方だ。最近は「Amazonプライム見るもん無くなってんけど…」というくらいとにかく見ている。最近のお気に入りはDisney+だ。怖い映像が苦手な我が子にはちょうどいいみたいだ。なぜかホームアローンにハマったり、スタンドバイミーなど古い映画にもハマっている。そして、食卓ではいつも自分たちのお気に入りのシーンのセリフ大喜利を兄弟二人で延々している。僕たち夫婦も同じものを見ているはずなのに全くわからないシーンばかりだが、兄弟の中ではその映像が一瞬で出てくるようだ。とにかく二人の息子たちは電波に流れるテレビはほぼ見ないでもめちゃくちゃ楽しそうに生きている。
 だが、見たい時に見たいものを見続ける彼らには曜日の感覚はほとんど無い。

放課後

 僕は子ども時代、平日特に習い事をしていなかった。そもそも同じことを続けることが苦手だったからなのかもしれないが時間は持て余していた。放課後はとにかく遊んだ。そもそも誰かの家で遊ぶ約束でもしない限りとにかく放課後は学校に残って遊んでいた。誰ととか、何をということも無く毎回のようにメンバーは増減しつつ何かをして遊んでいた。絶対下校の放送がなって帰ったとしても今度は帰り道で遊んだ。そもそも小学校の記憶の中で勉強した記憶がほとんど無い。やったことあったのかと言うほどまるでない。それだけ遊んでもまだ家ではゲームをしたり、テレビを見たりしていたのだからまぁ暇を持て余していたのだと思う。
 今の子どもは忙しい。我が子たちはバスで下校する。基本的には放課後すぐにバスに乗る。そもそも我が子の通う学校では6時間の授業の終わりは15時15分、絶対下校は16時過ぎだ。遊ぼうとして遊び出したらすぐに帰らなくてはならない。
 習い事の種類もずいぶん増えた。ネットで習い事を調べるだけでも…

 実にたくさんの習い事が見つかる。子どもが減っているのにこういった選択肢が増えれば増えるほどそれぞれの『魅力』が高くなければ生き残れない。もちろんこういった新しい時代の習い事以外にも地域のピアノ教室にスポーツ教室、学習塾など家族とゆっくり過ごして、時間を持て余す余裕なんてほとんどない。加えて、科学が進歩すればするだけ『こうしておくと良い。こうしちゃいけない。』と気にしないといけないことは増える一方だ。

良いこと取りがオススメ 

 こうして2つの要素だけ切り取っても『子ども』を取り巻く環境は完全に変化している。それでも今の子どもたちも僕も明らかに座りにくい座り方を『体育座り』と教わって育っている。ググればすぐに「あの座り方が運動には適していない座り方だと調べられる時代」にだ。
 要するに僕たちは『ハイブリッド』に生きるために常に『思考』していないといけない。疑問に思ったことは調べないといけないし、無駄なことは歯を食いしばって苦しんで続ける暇はもうない。

 最近の『子ども』も昔の『子ども』も本質的には同じだ。面白いものにのめり込んで、工夫して、自分たちが楽しむことに貪欲だ。環境が変われば反応は変わって当然だ。こんなに面白いものが増え、めちゃくちゃ興味を引く教え方をしてくれる『コンテンツ』が溢れているのに退屈な方法ばかりに固執して大切な『未来』を潰してはいけない。もっともっと感覚的に湧き上がる『気持ち』を大切にできる『教育』を僕も作っていきたい。

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