心の教育の難しさ

子ども

 つい最近、うちに来る子の一人が言った。
 「先生、何かクラスの手紙しょっちゅう書いてたよな。あれ俺一個も読んでへんかったわ。」
 笑いながら話す彼に僕は「あぁそう。」としか言わなかった。決して良い気分では無い。でもそんなもんだよくらいに思っているので傷付いたり、腹を立てたりはしていない。
 ただ、今の彼にも、今までの彼にも僕の言葉は刺さっていないという事実ははっきりした。
 僕が今の仕事の話をすると多くの人が似たような反応をする。
 「教え子に愛されて幸せですね。」と。僕は笑って「そんなんじゃないですよ。」とやり取りをするが、本気でそう思っている。
 きっとうちに来ている子の大半は僕の魅力では無く、『宿題があるわけでも無く、サボっていても怒られないし、お菓子も食べられるし、携帯やタブレットを触っていられるから、塾で勉強させられるより楽で良い。』くらいにしか思っていない。これは、僕の『伝える力の無さ』であることは間違いない。
 でも、毎日試行錯誤し、親とコミュニケーションを取り、どこかで『芽』が出る瞬間を待ってより良い『教育』を目指している。

冷蔵庫にはお菓子がいっぱい 

 以前にも記事を書いたがうちの施設の冷蔵庫にはお菓子を置いている。

だから『お菓子』は『教材』です!
 家庭学習応援施設My Placeでは、常に子どもが食べてもいい『お菓子』を置いている。 ただ、この『お菓子』それなりに消費が早く、最近さらに消費が早い。 理由は簡単である。利用者が増えて、「お菓子でも食べようぜ!」のコミュニケー...

 利用者が増えれば自ずと消費も早くなるワケで気付けばすっからかんなんてこともよくある。

 これを見た子どもは口から「全然お菓子無いやん。品揃え悪っ。」と吐き捨てるように言ったりもする。
 もちろん、そういう子に限ってお菓子のゴミは捨て切れていないわ、自分の気に入ったお菓子を大量に食べるわと『共生意識』が無かったりする。
 僕はきっと学校で働いていた時にはこういったことは『ルールで押さえ込む』ことでクリアしていたのかもしれない。本当はもっと上手に『自由』を扱える子の権利を奪って良くないことが起きにくい仕組みを敷いていたのだと思う。
 僕はある時思った。本当に将来のことを考えるなら『信じて、任せて、関わり続ける』しかないのかなと。
 僕だって人間だから腹は立つ。
 特に努力の見えない子の「サービス行き届いてないな発言」には正直ガッカリすることの方が多い。
 でも、僕はこういったブログや利用者の方に届ける公式のLINEや日頃の関わりの中で「こういう考え方素敵だね。」とか「やっぱりこういう関わりって必要ですよね。」と問題提起しながら『立ち止まるきっかけ』を提供し続ける。それが空を切り消えていったとしても僕は伝え続けること、『大切なことが学べるもの』はコスパが悪くてもやめるつもりは無い。

心の成長は『経験』と『知識』 

 親に感謝しなさい。お年寄りは大切に。小さな子どもには優しく。など僕たちは子どもの頃からこうした方が良いよね。ということをたくさん教えられた。でも正直それが本当に大切なことなのかよくわからないまま、実感を伴わず大人になってきた気がする。
 僕が『心』を動かす時はいつも『経験』と『知識』と重なった感覚を得る。
 例えば、僕は『食べ物を粗末にしない』ということは小学生の頃のボーイスカウトのキャンプで学んだ。僕たちが所属していたグループでは1日の大半は自分たち子どもだけで過ごしていた。水を汲んで、薪を拾って、火を焚いてご飯を作る。片付けにしても時間内に全て終わらせなければならない。そんな中雨が降った日にはなかなか火が付かないなんてことはたくさんあった。どれだけくたくたに働いていても食べるものが無いという日を何度も経験した。僕はこの『経験』があったからこそ、「食べるものがあって当たり前では無い。」という気持ちが芽生え、おいしい食事を並べてくれる人に対する感謝はいつも持つようになった。

 確かに僕らの生活は当たり前に溢れている。刺さらない場所には続けていても『当たり前』で通り過ぎて行く。だからこそ、『親が子に』『先生が子に』そして僕ら『社会の大人が子に』語り掛け、それに繋がる『経験』や『知識』を与え続けなくてはいけないのだと僕は思っている。

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