僕たちが教えてやるべき道

教育

 先日、アルバイトの学生がふらっと遊びに来た。そもそもバイトでもないのにふらっと遊びに寄ってもらえるような場所であることがありがたいことだ。
 そんな中ふと僕らの話題が学校の校則のことになった。そもそもは、僕がLINEのタイムラインに文科省が通知を出した『社会の実情に合っていないような校則は適宜見直す必要がある。』という内容のニュース記事のリンクを貼ったことにあった。

「自分は、ある程度厳しい校則も必要だと思う。社会に出ればブラック校則や理不尽なルールが溢れている。社会に出て初めてその厳しさを知るよりも自分は学校っていう場でもそういうことに慣れる必要があるんじゃないかと思う。」

 僕は楽しかった。そして、嬉しかった。こんなにハッキリと学生が『教育』にあるべき姿を表明し、一緒に議論ができることが僕はとてもありがたいなと思った。もちろん、その時にも僕からの意見を伝えたが、せっかくなのでここにも書いておこうと思う。

 彼の意見は至極全うな意見なのかもしれない。同じような意見を僕は僕より立場のある先生の口からも聞いたことがあるし、大人のほとんどがそう感じているんじゃないだろうか?『ルール』が緩和されれば『ルーズ』な人間が増え、社会が維持出来なくなると言った主張もある。
 だが、僕はやはり『教育』としてのミッションは、そっちに向かうべきではないのではないかなと思っている。
 大前提を先に伝えておくと僕は『ルール』があることは一切否定する立場ではない。コミュニティーを維持するために自分たちの過ごしやすい決まり事を作ることは何の問題も無いと思っている。
 確かに世の中には不条理な問題やブラックな労働環境やハラスメントに遭遇するようなケースが少なくはない。ただ、それは『今の世の中』での話だ。子どもたちに正しい『知識』と『スキル』を手渡せば社会は変えられる可能性は十分にある。
 こんな本があるのをご存じだろうか?

 僕らが生きていく上で保障される『権利』についてわかりやすく解説されている本だ。子どもにも大人にも誰にでも『自由』や『権利』が保障される国、日本。ただ、それを知らなければ「自分が間違っているのかな?」「これってワガママなのかな?」と間違ったことをしていなくても自分を押し殺して生きなくてはいけない時代も実際にはあったわけだ。
 僕はどれだけ『ルール』を厳しくしても嫌なことは起きると考えている。ましてやその『窮屈な想い』の捌け口がそのコミュニティーで立場の弱そうな人に向けられる。
 僕は『学校』で働いている時にこれが一番嫌だった。『ルール』があれば守らせなくてはいけない。僕は声も大きいし、体もデカい、ちょっと注意すれば小学生は言うことを聞いていた。ただ、僕はそれでも困らないが、先生によっては子どもが必死にそこに反発しようとする。『ルール』で押さえつけるコミュニティーを維持するためにはマンパワーは必須だし、それでも押さえつけられないことがよくある。同時にそもそも子どもは押さえつける対象で良いのか?という議論も必要だと思う。

  • 上司からの『いじめ』に耐えるための
  • ルールを違反した働き方に耐えるための
  • 子育てや家事を一方的に押し付けられる環境に耐えるための

 そんな『ルール』を敷いて免疫を付けることが社会で生きるための力なのだろうか?
 僕はそうでは無いと考えている。
 理由は簡単だ。それに耐えられたヤツだけの生き残る世界はつまらないからだ。いくら『ルール』の方がおかしくたって『ルール』を守れなかった者はルール違反になる。そんな生存ルールのもと、『道徳』『人権』『生命』『健康』について本気で語ったって言葉が空に舞って逃げてしまう。

 「嫌なら辞めれば良い。」という自由が保障される国で、無数の選択肢がある中で、耐えることが正義と教えられることが前向きに人生を送るためのスキルだとは僕は思えない。耐えられなくなった人が働けなくなり、家を出られなくなり、命を絶つ世の中がまかり通っているなら変えるためのアクションを本気で取らなくてはいけない。それが『教育』ってもんじゃないのか。と思っている。

 人生は明るく楽しむためにある。それを支えるのが、家族であったり、パートナーであったり、仕事であったり、居場所だったりする。「それしかないんだ。頑張らないとどうしようもない。」を小中学生の間から教え込んでいくことではなく。みんなが選べる選択肢を常に示し続けられるような『場所』それが『教育』を語る上での条件なのではないかと僕は考えている。
 

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