僕は今年で36歳になる。まぁ、働き手としてはそれなりの年になってきたが、小学校に通う子どもを育て、仕事では小中学生、場合によっては高校生と過ごすことがあるので、『子どもの文化』に凄く興味がある。
ハッキリ言って、自分の記憶にある僕の小中学生時代と今とでは全く違う世界を生きていると言えると思う。ただ、これまた面白いことに現実世界では、これだけ『変化』に富んだ環境がありながら、『学校』という文化はほぼ同じと言っていい。『学習内容』も『校則』も『生活の中に漂う雰囲気』も、ほとんど変わっていない気がする。もちろん、多少は設備面で変化はあるが、大きな『柱』は変わっていない気がしている。
別に僕らの生きた時代が良くて、現代が悪いみたいなダサい話をしようとしている訳ではない。
育つ世界が変化して、伸びる部分が変わっているのに、測る『尺度』が同じじゃレベルが下がったように論じられちゃうよねって話をしようと思う。
僕らは『文化』の中で『成長』している
まず、初めに伝えておきたいのは、僕は子どもの『成長』に大きく変化を及ぼすのは、優れた授業や過度なトレーニングでは無く、『文化』によるものが大きいのでは無いかなと思っている。これは、決して『優れた授業』や『トレーニング』が無駄だと言っている訳では無い。ただ、『優れた授業』にずっと身を置ける人は、決して多くはないのが現状だと思うし、『厳しいトレーニング』に生き残れる精神力を持つ人はそう多くないと思っているだけだ。
気が付かないうちに『夢中』になっていることを『文化』だと捉えている。
①手紙回しと交換日記
僕が教師をしている7年半の間にもめちゃくちゃ変化はあった。
例えば、僕が初めて担任した時の高学年時代と2度目に担任をした学年の高学年時代を比べると圧倒的にスマホ所持率が上がっている。ただ、これとの相関関係は分からないが明らかに『手紙回し』と『交換日記』が減った気がする。
僕と同世代の『娯楽』の少なかった時代を生きた人々は、思い出すことが出来ると思うが、筆箱の中にやり取りした手紙まみれの子とか、交換日記を渡し合う子って結構いたのではないかと思う。
もちろん、授業を聞かずに手紙をコソコソ書き続けることや書く内容が人の悪口だったり、グループ化を抑制したりする意味だったり、色々な背景があって『学校』では許されぬことってなっていたとは思うけど、それでも教師の目をかいくぐり結構な子たちが『手紙回し』や『交換日記』に夢中になっていた。僕はこの影響が、『書く文化』を少し遠のかせたような感覚を持っている。
何となく高学年ぐらいになった時に、『流行りの字体』に変わりゆく子たちの存在もあまり気にならなくなった。ただ、完全な肌の感覚だが、手紙や日記に通ずる文化をLINEやSNSに移行させた子たちは、結構字が上手くない。
②月曜日と言ったら〇〇
僕らの子ども時代、曜日はテレビに支配されていた。
『ダウンタウンごっつええ感じ』は日曜日、『ドラゴンボールZ』は水曜日といった具合に頭にきちんとインプットされていた。テレビが一家に一台という家も多く、この曜日感覚できちんと動いていないと先にテレビを取られてしまい兼ねない。そして、確実にその翌日は、『学校』でテレビっ子たちの『面白再現ショー』が開催されていた。人気の番組はもはや『見ないといけない空気』さえ感じたし、同じ『経験』を共有することで多くの友だちとのコミュニケーションのきっかけが作りやすい時代でもあったと思う。感想を語り合ったり、展開を予想し合ったりする中で僕たちは『話す文化』を形成していたのではないかと思っている。テレビ以外にも動画や娯楽が高まった現代、クラスのほとんどが放課後の時間に別々の場所で『同じ体験』をしているなんてことが今の『学校』ではほとんど見かけない。今の子どもたちは結構忙しいのだ。
③テレビっ子
テレビの力は他にも感じている。僕らが子どもの頃、テレビ番組の録画はビデオテープによって行われていた。録画をするという行為自体に結構ハードルがあった時代だ。親に頼まないとなかなかテレビ番組を録画するという行為に及ぶことが難しい時代でもあった。
そんな中、先にも書いたようにテレビが一家に一台だった場合、テレビの視聴権を先取りするということはかなり重要なスキルになっていた。その日に見たいテレビがある。そして、それをいち早く共有するためには見逃すことは許されない。
するとどうなるか?勝手に『生活が整えられる』のである。時間までに宿題をし、風呂に入り、食事を済ます。遅れる訳にはいけない予定がかなりの頻度でやってくることで僕らは自然と自分の生活を管理するようになるのだ。
最近、よくYouTubeを見たり、TikTokなんかも手を出すようになったのだが、どのアプリも視聴するたびにオススメを提供してくる。かなりの『沼』に引きずり込んでくるのが、現代の『娯楽』だ。視聴傾向をデータ化し、それに共通するようなものを次から次へと提供する。しかも、いつでもやめられて、いつでも始められる。僕らがCMの間にトイレに行ったり、単語や言葉の暗記をしていた何て行為を挟む余地はそこにはない。
僕らは、今とんでもないスピードの社会を生きている。そして、そんな社会で僕は『教育』というとんでもなく壮大なテーマを生業にしている。
『学校教育』の指針は、国レベルで動く分スピード感が出しにくい。その分、様々な知見を持つ方々が深く議論されている。僕は、今基本的に自分の判断で教育を発信できる立場にある。『スピード感』と『柔軟さ』を武器に子どもの『文化』に少しだけ種を蒔くような仕事をこれからも心掛けたい。
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