人の『感動』を既定するな

子育て

 上の息子が小学1年の参観日のことだ。
 内容は、1年間を振り返りながら音楽の授業で練習した歌や楽器の演奏を学年で発表するものだった。緊張でガチガチになりながらもしっかりと取り組んでいる様子や楽しそうに友だちと話している様子は純粋に『温かい空気』を感じた。
 長男にも「緊張してたけどようできとったなぁ。頑張って練習してたもんな!」と帰宅後伝えた。
 本人は「家族を喜ばそう!」的な行事は結構好きで今回も参観日に関するプリントを「このプリントは絶対見んといてやぁ!」と隠しながらワクワクした様子だった。そういう気持ちになることはとてもいいことだと思った。
 ただ、次の日長男が、
長:「あのさ、昨日の参観日感動した?」
僕:「うん。頑張ってたなと思ったよ。
長:「泣いた?
僕:「いや、泣いてはないかな。
長:「あかんかぁ…
僕:「いやぁ、あかんくはないで。頑張ってたから良かったよ。」
長:「先生がお家の人感動させて泣かしてください!って言うててん。」
  「〇〇くんのお母さんは泣いてたらしいねんけどなぁ…
僕:「いや、感動するにもいろんなタイプがいるからええねんで。」
 とまぁこんなやり取りをしたわけだ。

 僕自身、親になり我が子の『行事』を経て、たくさん子どもの『成長』を感じてきた。
 ただ、その陰に『指導者』の努力を感じながら、それでも子どもの『成長』や『頑張り』というのは嬉しいものだ。
 親心っていうのは、結構単純で子どもが喋られるようになれば嬉しいし、立てるようになれば嬉しいもんだ。出来なかったことがいつの間にか出来るようになる度にそれぞれの形で『感動』しながら親だって生きている。『感動』の仕方は人それぞれさまざまである。

 『教育』っていう営みは本当に大きな責任を担うなと僕はよく思っている。
 僕が『学校』で教えていたことも何かにつけて「それって本質か?」と一度考えるようにしていた。
 例えば、『音楽』って本当にちんと静かに聴くことが正解なのかな?だとか、休み時間走り回っている子どもにいつも同じ『準備体操』が正解なのかな?といった具合に気になることはたくさんあるけど、なぜかやめられない文化があり、そこから作られる『社会』の当たり前に苦しんでいる人っていないのかなと考えていた。
 『感情』っていうのは厄介なもので、嬉しければ笑う、悲しければ泣く、怒っていればムッとした顔をするがいつもいつも正解ではない。100人居れば100人のカタチがあるのだ。「あの子も笑っていたからイジメだと思っていなかった…」なんて平気でまかり通ってしまってはいけないのである。

 僕は今、完全に個人の責任で話ができる。そして、必要だと思うことを全力で伝えられる立場になった。それでもなお、『感情』『思想』など人の内面に関わるようなことを既定するような教育はしてはいけないなといつもピリッとした気持ちで生活するようにしている。

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