僕は学校で働いていた。学校という場の中ではすごく大きな責任を背負って働いていたので、半ば『当たり前』くらいに思っていたが、すっごく特殊な環境だったなと改めて思う。
でも、今は言いたいことが何でも言える立場になったのではっきりと言いたい。今、『学校』の中で本当に大変な環境で働いている『先生』たちにもっと敬意を払うべきだと。僕は昔から『行動』に対して問題提起したり、意見したりはするが、『人格』は否定しないと決めている。日本の教育環境はまだまだ変わる必要はあると思っているが、日本全体の『減点方式』の風潮に嫌気がさしていた『教師だった自分も含めて』今日は学校の先生に労いの記事を書きたい。
①時代が大きく変わったのに…
僕は今年で36歳になる。ただ、まだまだ襟付きのシャツでバシッと決めて格好が付く年にはなって来ない。僕が小学生だったあの時には想像もしていないくらい大人になった。もう30年が過ぎようとしているのだ。
社会の様相も大きく変わった。
僕らが狂乱するように遊び狂ったスーパーファミコンなんてもう子どもでも一人一台持ち歩くスマホなんかの方がよほどスペックが高いわけだ。何度、アプリストアにあるドラクエやクロノトリガーを購入してやろうかと迷ったことがあるかというほど未だに楽しかった記憶は消えていない。
世の中はインターネットの登場によりどんどん変化している。子どもが中毒的にハマる要素のある『物』が世の中には決して高いお金を払うことなく利用できるようになった。つまり、多くの家庭は今『娯楽』に溢れている。実際に我が子を見ていても学校から帰って寝るまでひたすら何かしている。僕は子ども時代することが無くてしょうがない時にはよくキッチンをウロウロしていた。つまみ食いが出来るかもしれないし、友だちと遊んでいない時間の家で夕方のちちんぷいぷいに飽きたあの時間は苦痛でしか無かった。もちろんそれでもひたすら遊んでいた。遊んでも遊んでもそれでも生まれる暇な時間があの頃には溢れていた。
僕が考える今の先生にするべき感謝のひとつ目は、『現代社会のあらゆる便利なものを跳び越して、決して豊富とは言えない昔とほとんど変わらない環境の中で多くの子どもたちに『楽しい』と思える時間を提供してくれていること』である。
友だちとはいつでも繋がれる。自分の好きなことにすぐアクセスできる。家にいるだけでも楽しいことに時間を奪われて一日が終わることなんてザラにある。そんな現代社会の中で学校に行って『楽しい日』がある。だけでも不思議なぐらいだと僕は冷静に思っている。よく大人で「学校なんて友だちに会えるだけで楽しい場所なのに、うちの子は楽しくないと言っている…」と過剰に心配する人がいるが、逆にこの状況で楽しくないことの可能性の方が高いはずだ。これは誰が悪いとか、誰の責任とかでは無く、『楽しい』と言ってくれれば感謝。僕はそのくらいに思っている。現代社会と学校のギャップがある以上なかなかそこは埋まらないだろうと思っている。
②もう騙されない…
僕はそう多くは無いが学校の先生に暴力を振られたことがある。ただ、これもよくわからない話で小学5年生の時の隣のクラスの担任の先生からだ。昔だって決して体罰が許されたワケでは無い。僕は記憶力がまぁまぁ良い方でその時のことを今でもよく覚えている。習字の時間に必要だと言われた新聞紙を何回か連続で忘れていたそれが理由だった。教室の隣にある視聴覚室に昼休みに呼び出され、端から忘れ物をした物を答えて顔をはたかれるワケだ。さらに面白いことに自分がはたかれているのに横に居た子はその部屋を出る時に「ありがとうございました。」と言っていた。僕には全然理解できなかったし、その次の日担任の先生はそのことをクラスのみんなに『良いこと』として褒めていた。もう何が何だかわからないこのエピソードを僕は決して自分の親には話さなかった。今思えばバカバカしい話だが、自分が忘れ物したからしょうがないくらいに思っていたのだ。
僕らには当時『知識』が無かった。知らないというのは怖いもので、それが普通くらいに思っていたのだ。体罰やストレスなんて『言葉』は僕たちには存在しなかった。そして大人の中にも発達障害や個別の配慮なんて『意識』は存在しなかったのかもしれない。
ある意味当時だってそんなことはやってはいけないという先生もたくさんいたと思う。それでも昔は容認されていた『体罰』は多少はしょうがないくらいの社会の風潮がそこにはあった。学校というパッケージの中で起きてはいけないことが起こったら手っ取り早く力で解決する(したようにする)ことで30~40人の子どもを管理統率するワケだ。その中の数人がこぼれても、潰れても『教育』だと言い切れる時代だ。
僕が考える今の先生にするべき感謝のふたつ目は、『暴力で解決できない状況で、あらゆる子どもの個別の事案に配慮しながらも、多くのルール制約で働いてくれていること』である。学校ほど多岐に渡る仕事はそう多くは無いかもしれない。これだけの日本全国に事業所があって、何人もの従業員が働いて毎日の残業を法律で無効化されている職種は他には無いだろう。そんな決してどの人にとっても過ごしやすい労働環境でも無い中で自分の家族や自分の時間を『他人の未来』のために使うこと自身感謝以外の何物でも無いはずだ。
③コロナ禍において
学校はあくまでも託児所ではない。教育機関だ。コロナによる休校でこれでもかというくらい多くの大人が知ったことのひとつに『子どもが家にいると言う日々のストレス』だろう。別に子どもが家に居ること自体を否定するつもりは無い。ただ、大人はこれまで自分の時間を作るために必死に子どもに部活動をさせ、習い事をさせ、塾に通わせた。でも、コロナによる休校中はどの子も家にいるしか無かった。最初は公園によく行っていた子も、友だちに会えないことを嘆いていた子もどんどん『お家時間』が増えていった。
ただ、多くの親は必死だった。YouTubeばかりにならぬよう、ゲームばかりにならぬよう、毎日の学習や生活のリズムが乱れぬよう…全てはそれを仕事をしながら親に託された。
僕が考える今の先生にするべき感謝の最後は、『このコロナ禍の緊張感で、自分の子どもでは無い子どもたちをどうやったって感染のリスクがある状況にも関わらず、自分の心配もあるだろうに子どもに関わってくれていること』だ。コロナによって様々な補償が与えられる中で、給料が下がっていないという部分で『教師』に対する補償は無い。国全体のバランスから言って金銭的な補償は確かに必要無いかもしれません。でも、心配事や仕事の環境や業務はきっと増大していることだと思う。国からの慰労金は無いかもしれないが、僕は感謝している。
やってもらって当たり前、やっていない先生を力の無い先生だと揶揄する雰囲気は僕は大嫌いだ。これを読んでいる学校の先生がもし一人でもいるならば連絡をください。緊急事態宣言が終わったら是非個人的に慰労します。
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