子どもの主体性と教育の役割

雑記

 僕の住む西宮市では、昨年度末から小中学生に一人一台タブレットパソコンが配布されている。
 僕はこれに対しとても肯定的に捉えている。
 ただ、これらの機器が配られる前多くの不安が僕のところにも聞こえてきた。「子どもが勝手に遊びに使ったらどうする?」「使いこなせるのか?」それについて市からは年次計画に基づいてガイドラインが示されたが、多くの不安を取り除くために使われているのは基本的には機能的な『制限』だった。この辺りには僕は良くも悪くも『日本的』だなと感じつつも、多くの制限を掛けた一人一台パソコンはあまり役に立たないのではないかな?と思っている。

子どもたちはスゴイ 

 少し前のことになるが、放課後にMyPlaceを利用する小学生がいつになく盛り上がっていた。
 もちろん、小学生が集まれば盛り上がるのは当然だが、聞こえてくるのはゲームの話だ。
 おかしい。
 MyPlaceにはタブレットがあるが、今は動画視聴やアプリゲームの使用は認めていない。際限なくアプリが増えて困ったからだ。子どもたちは学校で配られたパソコンを使っている。子どもたちのパソコンを覗くとそこには完全にテレビゲームのソフトが再現された映像が映し出されていた。
 ただ、使っているのは学校で配られたはずの『制限』の多いパソコンである。それぞれにアプリは入れられないはずである。
 「何これ?」と聞くと「スクラッチ!」と答えた。
 聞くとスクラッチというプログラミングソフトの中で世界中のクリエーターがアップロードしている作品には、まるでテレビゲームをそのままコピーしたようなものがたくさん並んでいるわけだ。機能的な制限を飛び越えてこうしたゲームがあると知ればどんどんその世界へ入り込んでいくのが子どもたちだ。

 別に僕は今の子どもに限った話をしているわけではない。水辺で遊んでいて平らな石を見つければ何回跳ねるかやってみたくなるものだし、ボロボロのボールが公園に落ちていれば枝を使って野球を始めたりするものだ。子どもたちは許されたルールの中でひたすら自分の好きな遊びを見つけてはそこにのめり込んでいく。
 もう子どもたちを外からの『プレッシャー』や『制限』だけでコントロールできる時代は終わったのである。

教えるべきは何か 

 僕はよくインターネット、ゲーム、性教育、お金のことは今の日本の子どもに正しく教えるべき重要なテーマだと言っている。
 なぜなら、正しい知識が無いことによる『ダメージ』が相当大きい分野であるものの、学校での指導すべき範疇におさまり切らない。そのうえ子どもたちにもかなり身近な内容だからである。
 インターネットがあれば『知識』はどこにでも転がっている。Googleに『知りたいこと』を打ち込めばたいていのことはわかる。
 ただ、読み解く力騙されない知識も同時に必要になる。ゲームだって使いようによっては様々な知識を獲得できるし、難しい言葉だって知る機会になるかもしれないが、それをきっかけにその他の生活を崩してしまうような依存性がある場合だってある。性のことだってもはや「それなりに大きくなったらそのうち知るでしょ。」なんて呑気なことは言ってられない。人の命や尊厳に関わる大切な問題だ。お金の話だってそうだ。知らないと損をする幅はかなり大きい。

 今回のパソコンのことだってそうだ。ゲームばっかりして!!だとか、ゲームを制限するで子どもを良くないものから遠ざけるだけでは都度こういったことは起きてしまう。
 僕は今回のことが起きてしまったこと自体が良くないと言っているのではなく、今子どもたちに僕たち大人は何を教えてやるかを考えるタイミングが来ていると感じているのである。
 何気なくやっているこの遊びの裏でないがしろにされている『著作権』についてはどれぐらいのことは知っているのだろうか。YouTubeにしたって、漫画にしたって世の中には本当はいけないのに大勢の人が使っているもので溢れている。ゲームの年齢目安を平気で無視する家庭が大半なのは『ルールの教育』にも反していると思う。
 「学校のルールには違反してないもん。」と得意そうに言っている子どもたちが社会の『規範』や『マナー』下手すると『ルール』から逸脱しているならそれは一大事だ。

 知らないことは「教えてやれば良い。」、出来ないことは「やってみせてやったらいい。」というのは真似ぶからきた『学ぶ』という枠組みの中では非常に大切なことであると僕は思う。便利なこの世界では良く知らないものを遠ざけ「マイナスがあるかもしれない。」としておいて何となく知らないうちに大人の世界へフェードインさせていくやり方よりも大人が知恵を搾って「何を教えてやるべきか。」について考える必要があるのではないだろうか。

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