『校則』と『自粛要請』から見える日本の空気

学校

 僕が教師であった頃、毎年のように4月の会議で行っていたことは、『学校のルール』の見直しだ。
 僕は『学校』こそ『社会』により近いシステムで生活しないといけないという意識があり、そう考えるとかなり生きづらさを感じていた。僕自身が子ども頃にも『靴は真っ白』『靴下も真っ白』『学ランは上まで止めろ』『着る服が季節で決まっている』というメリットが決して多くない『校則』がたくさんあった。
 もちろん、在学中にも少しずつ変化があったのだが、『校則』が変わっていくことを聞きつけた先輩たちが「俺たちは我慢してきたのにズルい!!」と話しているのを聞いて、何とも言えない『空気』を感じた。
 日本という国は、『公共の福祉に反しない』範囲での自由は権利として認められているはずなのに、いやというほど『周りを意識して生活しなくてはいけない空気』を感じる。
 コロナ禍における『自粛生活』で感じた日本の空気と厳しい『校則』が作り出す文化について書こうと思う。

1.『ルール』はとても大切

 僕は『ルール』すごく大切だと思っている。
 これは完全に高校時代に学んだ倫理の授業でソクラテスが「悪法も法」だと話して散っていく姿に「カッコいい。」と思ったことがきっかけなのだが、僕は『自由』を愛するが故、『ルール』というのは無茶苦茶大事だと思っている。
 こういう話をすると「いやいや、アイツとんでもない格好して働いていたし、絶対口だけだ!」とツッコミが入りそうだが、間違いなく僕は『ルール』は大切にしている。
 次の写真は僕が『教師』時代の写真だ。

 ただ、僕の当時勤めていた学校に明確な『教員の服装や髪型』に関する規定は無かった。
 あったのは『何となくダメなんじゃないか』というイメージだけだった。
 もちろん、こういうことをすると「教師なのに何たることか!」という人が存在していて、実際に教育委員会の人に「僕は怒ってるんやけど!!」と話しかけられたことがある。僕からするとそこまで嫌なら『ルール』を作ればいいと思っていた。僕は、以前サービス業をしていたので社内の『ルール』には従順だった。なぜならその『会社』を選んだのは僕だから嫌なら僕が辞めるべきだと思っていたからだ。
 僕が大事にしたいのは、コミュニティーを円滑に回す上で『ルール』は必要だと思っているし、それには従うべきだと思っている。
 しかし、『ルール』でも無いことを気に入らないからって揚げ足を取り合ったり、『暗黙のルール』で『個人の判断』が取りにくくなる環境を作ったりしいてはいけないと思っている。

2.だからこそ『ルール作り』はめちゃくちゃ大事 

 僕は、こういう考えがあるので、『ルール』はめちゃくちゃ大事にしている。気に入らないことや無駄だなと思うことであっても基本的には守る。
 だからこそ、『ルール作り』の議論はとてつもなく頭を使って行っていたのである。

 例えば、学校には「呼び方は〇〇さんと言いなさい」だとか「話を聞くときは体を相手の方に向けて手を膝の上に置いて目を見て聞きましょう。」みたいな『プチマナー』みたいなものが『ルール』化されていることがある。
 ただ、全員にメリットがあったり、デメリットが大きくなかったりするかについて、絶対に検討した上でこうした『ルール』は設定すべきだと僕は思っている。
 〇〇さんと呼ばれることが本当にそのコミュニティーにいる子にとって正解か。例えば、離婚したことで苗字が変わった子にとって苗字で呼ばれることが『ルール化』するほど大切なのか、よくあることで言うとクラスにはそのルールがあるのに特別支援学級の子どもだけ〇〇ちゃんと呼ぶ何てことが平気で起こっている。これは『差別』以外の何ものでもない。

 今や、日本という国は世界中の色々な国と関わりがあり、日本には様々な子どもが生活していることもあり、日本の公立小中学校とは言え、色いろな文化が入り交ざっている状態である。というか、そういう前提の受け皿になっていることは間違いない。
 それにも関わらず多くの学校に存在する『今までそうだったから』という『ルール』設定は、子どもたちに「どうでもいいルールなんてバレなきゃ破ってもいい。自分たちには自由があるんだ。」ととんだ勘違いを引き起こし兼ねない。
 そもそも『こんなことになっちゃいけないから…』と悪いことばかり予測してアレはダメ、コレもダメなんて言い続けていたら『自分で考えること』を辞めてしまうに決まっている。
 真面目な子が考えることの方が面倒と思ってしまうような社会を作ってはいけない。

3.なぜ『自粛』で止められると思っているのか

 今、日本の色々なところで「コロナ禍なのにこんなことをして!!」みたいな批判が飛び交っている。
 ただ、本当に『国益』に関わることはきちんと『ルール』を作り、徹底しないといけないと思う。
 なぜなら、この『自粛』という言葉で何もかも「やってはいけないんじゃないか」という雰囲気で抑え込んでしまうと、正しいケアをしながら今もきちんと前を向いて生きていこうとしている人たちにも『マイナス』が生まれかねないからだ。
 「そんなことをしたら人が集まってしまうかもしれないから何でも自粛」という判断は、『経済活動の成長』『人の生きがい』も摘んでしまい兼ねない危険な風潮を感じる。
 子育ての世界にも同じようなことはある。ネットを開けば「我が子が我慢しているのに何で他の子は我慢しないんだ!!空気読め!!」みたいな言葉をよく見かける。
 この『国』は「自粛って言われたら何でも辞めろ!空気読め!」みたいな『暗黙のルール化』が一つの文化として成立しているのかもしれない。
 僕は曖昧な答えでどちらも立てる何てことは現実難しいと思っている。それぞれに自由がある分、その『責任』もそれぞれにあると思っている。
 僕らが今回の『コロナショック』で感じたことは紛れもなく次に繋がる人生への『学び』だと思っている。『国のルールを作る人』を選ぶ権利は僕たちにある。だからこそ、議論をしたり、しっかり考えたりを繰り返して『選挙』でルールの設定者を決めるのだ。その時に「あれ?内閣提出の法律の方が多いの?国会は立法府じゃなかった?」と思い始めて、学校で習ったことと少し違うぞ。と思い始めるとまた一つ考えるきっかけになるのかもしれない。

 だが、『学校のルールを作る人』を選ぶ権利は子どもたちには無い。だからって何もかも諦めてしまうのはよくない。『教育』に正しく向き合う人をもっと増やしたい。その想いで僕は『教師』を辞めたのである。このダラダラと書いた3000文字近くの文章を読んでくれる『優しさ』を一緒に『未来を支える子どもたち』に向けて欲しい。

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