勉強よりも大切な『自立』のお話

子ども

 子育てにおいて『勉強』にまつわる悩みを聞くことは極めて多い。ただ、僕は『勉強』が大切なことは重々承知の上で意外に見落とされがちな『自立』についてきちんと教えてやることの方がよほど重要だと思っている。今日は、僕自身が子育てする上で大切にしている『自立』について紹介したい。「勉強なんて役に立たないぜ。」と得意げに話しているけれど、勉強どころかそもそも『自立』してないじゃんって子は意外とたくさんいるものだ。

朝、自分で起きていない… 

 朝が得意、不得意に限らず『自分で起きる』は実行しているだろうか?「うちの子は放っておいたらいつまで寝るのかわからないからそれでは困るでしょ…」と聞こえてきそうだが、朝の時間に自分で起きるいう行動は遅かれ早かれ本人が学ばなければならない。もし、学校に遅刻して困るなら困れば良い。親が仕事なら放って出て、自分で学校に行きなさい。くらいは必要な厳しさだと思う。
 朝というそれぞれが忙しい時間に、自分で起きる気も無い子を叩き起こして、学校に恥をかかずに向かわせる努力をするくらいなら、次の日がしっかり起きれるように寝付くまで横に寝かしつけて朝自然と目が覚めるような時間に寝かせる方がよほどコスパが良いと思う。夜いつ寝たかもわからない状態で、朝は必死で起こすような日々を続けているならすぐに辞めた方が良いなと僕は感じる。

時間の感覚が無い… 

 子どもは時間の感覚が無い。これは当たり前のことだ。時間なんてものは大人が決めている概念なのだからだいたいで生活しているに決まっている。ただ、これは実は放ったらかしにしていては育たない。
 朝ご飯には何分かかる?学校に行くまで何分かかる?この作業は何分かかる?どこどこに行くまでに何分かかる?などなど僕らは生活しながらその概念を固めていくのだ。
 だが、これが大人によって追い立てて何とか生活を回していると半自動に生活が成り立ってしまう。そのため自分が何をするにはどれくらいの時間がかかるかがわからないままある程度の年になることが結構起こっているのだ。気が付けば料理が出て来て、気が付けば服が用意されていて、気が付けば髪を結んでもらえているなんて生活をしているうちに毎日が何となく終わっていく。実際にやらせてみて何分かかるかを知ることによって僕たちは時間の感覚を育てていくわけだ。
 時々、家に帰ってご飯を食べて、風呂に入ったら何分くらいかかる?という質問に対して中学生になっても曖昧な返答しかできない子がいる。大遅刻を何度か繰り返してでもこれについては『信じて任せる』を繰り返しながら『自立』に繋げてやる方が良いと思う。

好きな余暇の過ごし方が無い… 

 今一番好きなことって何?という質問は僕にとってかなり使える質問である。
 多くの『自立』ができない子どもたちは自分の『好き』がなかなか持てない。僕は別に好きなことが何であるかに関しては特に何でも構わないと思っている。漫画であれ、ゲームであれ、アイドルであれ、教科の学習やスポーツと同じように『好きなもの』に対する優劣は付けるべきではないと思っている。
 ただ、別に『好きだ。』とハッキリ言えるようなことで無くても気が付けばそこに時間を費やしているという状態は非常に危険だと感じる。どうせ大人はこんなこと認めてくれないし…とあぁだこうだ文句を言いながら、その重い腰を周りの大人が叩いて育てるような子育ては、価値が多様化した現代社会ではもっとも効率の悪い育て方かもしれない。

 教師の仕事、学習支援の仕事をしていると数限りなく届く「うちの子勉強しません案件」であるが、僕は子どもの『勉強しない』という行動はある意味SOSなんではないかと思っている。僕は、今の仕事になってZero塾という無料の学習支援を開くようになった。そこには勉強が嫌い、苦手だという子どもたちが自分から足を向けてくれるわけだ。ただ、『自分から動く』は追い立てられて取った点数なんかよりよほど価値のある『行動』だなと思っている。教科の学習をする力というのはあるには越したことは無い。ただ、それに固執して普段の生活や家族関係まで崩してしまうようなほど大切なことではない。なかなか『勉強』ができないなという子たちの中で、もしも『生活自立』すらままならないという状況ならまずは生活の中で「自分で何とかしなくちゃならない場面」を増やしていってはどうだろうか?子どもたちと言うのは単純なもので自分たちにハンドルがきちんと渡されていると認識すると急に頑張り出すものだったりするものである。みなさんもお子さんの今を見つめ『自立』について考えてみるのはどうだろうか。

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