見逃すな!『不便』が生み出す教育

子育て

 みなさんは、自分のお家の居心地をどう感じているだろうか?
 僕は『快適』だ。
 ふとした時に思う。この『快適さ』が意外なところで子育てにおける、親の目指す先と違った方向へと向かわせるのではないかなと。

ズル休みが続かない不便さ 

 これはつい先日の夫婦の会話だ。」
 「昔ってたまにズル休みした日って超暇やったやんな。」
 「暇やった。」
 「テレビ見てても、ゴロゴロしてても、家に居るだけじゃ夕方くらいには、『暇過ぎる。』『明日は友だちに会いに学校行こう!』ってならんかった?」
 「なったなった。」
 別に同じ家族に育てられたわけではないが、二人とも共通した『経験』をしていた。
 これは僕に限った話ではあるが、僕にとっての『学校』は勉強する場所では無かった。単に友だちとの待ち合わせ場所みたいなものだった。
 別に中学生になってもそれは同じで、いつもいつも『授業』を真剣に受けていたわけではない。それでも『学校』に行くことは家にあるテレビゲームより、録画したテレビ番組より、たまに食べる高級スーパーの中華弁当より、僕にとって行きたい場所であった。家が嫌いなわけでも無いし、家族関係も良好だった。それでも『学校』には家では経験出来ない『刺激』があった。新しいことが大好きな子ども時代の僕からすると何が起こるかわからない友だちとの生活は、当時の家の『快適さ』を軽く飛び越えていたのである。

何をそんなに遊んでいたんだろう? 

 小学生時代で考えればとにかくいつもいつも放課後に学校に残って遊んでいた。もちろんたまには友だちの家に行くことはあったが基本的には放課後は学校で遊んでいた。何がそこまで面白いのかわからないドッジボールやけいどろ(なぜ、ぬすととたんていで分けていたのにけいどろと読んでいたのかは謎だが…)、竹馬で何周もグランドを回ったこともあった。
 僕らの遊びのタイムリミットは『バイバイ』の瞬間だ。
 僕らは必死になって『バイバイ』の瞬間を引き延ばした。帰り道もあぁでもない、こうでもないと『遊び』は続けながら。

今の家は『快適』だ 

 全員がそうではないし、それは一部だと言われるかもしれないが、今の多くの『家』は昔に比べるとずいぶん快適だと思う。
 友だちと『バイバイ』してもすぐにインターネットで繋がれる。
 僕らが子どもだった20年以上前は、用事があって友だちの家の電話にドキドキしながら電話をしていた。どう言えば良いかを親に何度も聞きながら、ドキドキしていた。仲の良い友だちであってもお母ちゃんが出てくれればまだ良いがお父ちゃんが出た時なんかはとても緊張したもんだった。だから、そうそう友だちの家と電話をしたいと思うことすら少なかった。
 
 僕は別にこれが良くないと言いたいわけではない。
 これだけの社会の変化があれば、文化、環境はガラリと変わるわけだ。
 子どもにとっての『学校』がどのような存在であるかは周りで支える大人がしっかり考えてやりたいものだ。
 飽きることのないエンターテイメントに満ち、お腹が減ったら最悪コンビニに行けば食べるものだって調達できる。友だちは自分の選んだ厳選した友だちとだけいつでも連絡を取り合える。

 最近、『不登校』の話題になるとよく『行くべきか』『行かないべきか』だとか『行かないと学力が…』『行かなくても自習が出来る!』みたいな論争がよく巻き起こっている。『役に立つか』どうかの基準で『学校』というものを裁くには、国がそこに掛けている税金の面からも分が悪いと感じる。
 それよりも『行きたいと思えるコミュニティー』がそこにあるか?を切り口に語られてこなければ『教育』を正しく盛り上げる方向性に行き着かないような気がしている。この便利な『家』から外に向かいたいと思うには、『会社』も『学校』もそれなりに魅力的でないといけないなと一人の経営者として考える今日この頃だ。

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