理想の『教育』を展開し続けるために『教師』を辞めた話

 僕は、2019年11月15日小学校の教師という仕事を辞めた。
 何人かの人には「もったいない…」と言われたが、ありがたい言葉だと気持ちは受け取りながらも、僕の理想とする『教育』を展開し続けるために30代というまだ少し体力に余裕のあるタイミングで『教師』という仕事を終わりにしようと決意した。
 今日はその辺りの話を少し詳しく書きたいと思う。

1.特別支援教育の学びから『教育』全体の気づきへ

 僕は、大学生の頃、小学校の特別支援学級のボランティアに行くことよくがあった。
 大学4回生の時には、すでに大学の卒業に必要な単位は全て履修していたし、ゼミも無く、卒業論文も書く必要が無かったので、平日は市内のどこかの小学校で過ごしていた。
 ただ、その頃は別に教師になりたかったわけでも無いし、単に楽しいからという理由で『小学校』という場所で過ごしていた。アルバイトは、自分で近所の小学生の家庭教師の口を見つけてきて教えていたので、ほとんどボランティアで昼間は過ごしていた。
 その頃は何の知識も無かったので、「へぇ、色んな先生がいるもんだな…」と漠然と『学校』を眺めていた。

 時を経て、僕は教師4年目の年から『特別支援教育』のことを勉強し始めた。
 もちろん、一般的な知識は教員免許を取る時に学んだはずであるが、ほとんどが右から左に抜けていくような状態であった。
 ただ、僕にとってこのタイミングでとことん『特別支援教育』について学んだことはとても有意義だった。自分に足りないことはもちろんのこと、長年眺め続けていた『教育』にまつわる疑問が次々に解決していくことが嬉しかった。
 『特別支援教育』の視点は、どの子にも本当に役に立つ視点だったし、自分のやるべき仕事がより明確になっていった。
 初任校の最後の2年間は、学校全体の特別支援教育の旗振り役である『特別支援教育コーディネーター』という仕事をさせてもらい、今までとは違うお家の方の悩みも聞くことができた時にある気づきが生まれた。

2.『教育』はチームで行う

 特別支援教育を学ぶ上で、発達障害の話や虐待や愛着障害の話、引きこもりや不登校の話もそれなりに学んだ。もちろん、身体障害や視覚や聴覚についてのことも学んだ。
 ただ、学べば学ぶほど自分のやってきたことや当たり前のように存在する学校のシステムによって子どもたちに大きな損をさせていることに気が付いた。多くの学校が取り入れている30人から40人の子どもたちを一気に教える場所なんだから『しょうがない』ということが意外にもそうでもなかったことに気が付いた。子どもに任せるという姿勢によって学校の仕組みはもっともっと変えられるし、多くの子に対応できる場所になるのである。
 そして、もう一つ大きなことに気が付いた。「もう、教育は一人の優れた先生の力でどうにかなるものではない。」ということである。
 自分がとことん学んでも所詮一人の人間が出来ることに限りがある。そもそもどんなに僕自身が色々な子に対応するために学んだとしても『人間』である以上嫌われることや相性がよくないケースはなくすことができないのである。
 どんな子どもにも優しい場所を作るには、どんな教師にも働き甲斐のある優しい場所が必要なのだと気が付いた。
 僕はそれ以降、担任である子に力を尽くすことはやめ、学年、もっと言うと学校にいる子にプラスになるような『働き方』や『教育』について考えを巡らせるようになった。ただ、『担任制』がある以上、僕のスタンスどうこうではなく、相手に精神的な壁(まずは、担任に頼らないと失礼ではないか?)が存在していたことにも気が付いたが、どう頑張ってもこの辺りの大きな方針変更はそうそうすぐに行われないものなのである。

3.『家族』をチームメイトにする

 子どもを支える上ではもう『担任の力』にこだわるよりも『組織力』にこだわるべきだと気が付いた時くらいから、僕は子どもたちの『家族(保護者)』にも深く関わるようにしていった。結果として「うん、これはもう校区に住んだ方が手っ取り早いな。」と感じて校区に引っ越してきたくらいなのでかなりの深入り具合である。
 ただ、この辺りから明確に変わってきたことがあるのは、親が話してくれる話の内容の『濃さ』であった。親の生い立ちや今の生活、子育ての苦労や日頃の悩みなど本当にコアな話をしてくれることによって『子どもたちに的確にサポート』することができていった。
 お家の人たちがよく「いつも先生、めちゃくちゃ細かいケアまでしてくれるから…」と言ってくれるのだが、これができるのは単にそのヒントをいつも細かく出し続けてくれる子どもたちの『家族』がいるからなのであった。
 僕の理想とする教育のチームメイトには、子どもの『家族』との距離感の近さは必須なのである。

4.若いからできること・若くないとできないこと

 僕は昔から子どもとの距離が近い。
 27歳になる年に学校で働くことになり3年間同じ学年を持ちあがった。今から比べるとまぁまぁ若かったのだが、長い休み時間に毎日のように鬼ごっこに誘われる。楽しいのは楽しいが、正直疲れる。あるお家の方からは、「先生、いつも遊んでいただいてありがとうございます。」と感謝されていた。何となく若い先生は子どもと思いっきり遊ぶものみたいな空気が流れるのは、学校の先生あるあるなのではないだろうか。
 ただ、ある時結構膝が痛くなることがあった。整骨院に行くと「運動する前は必ず準備運動をしましょう。」と言われた。どこにそんな余裕があるのか…
 と言うように子どもとの距離感が近い分、色々な遊びに誘われるが、僕も毎年1歳ずつおっさんになっていくわけだ。きっとそろそろ年ごろの高学年女子からは疎ましがられるに決まっている。年々夜中のレゲエイベントに行った次の日の眠さが凄まじくなっている。僕はいつまでも若くはない。
 これをふと冷静に考えた時に僕のやりたい教育は、いつまでも『僕』だけの力では発揮できないことに気が付いたのだ。ましてや、ずっと現場の最前線にいるとして65歳の『僕』は今と同じ立ち振る舞いは出来なくなる。するとどうだろう『担任制』の当たり前は、確実に僕のしたいことをどんどんと奪い取っていくということに気が付いたのだ。

 僕はこれからも自分の関わる教育には『近い距離感』『多様な引き出し』を提供していきたいとは考えているが、必ずしもその実行者は僕でなくてもいいとも思っている。
 僕が僕の理想とする『教育』を成し遂げるためには、同じスタンスで共にワイワイと『教育』を盛り上げてくれる仲間が必要なのである。僕にとってのその最善の策は、自分の体調を優先し、『教師』を辞めるという答えだったのだと思う。
 今、僕の周りには少しずつ『仲間』が働いてくれるようになってきた。昨日教え子と「まさか先生に給料もらう日が来るとは思わなかった。」という話になり、まさにそうだと思った。人生は本当に何が起こるかはわからない。だからこそ、『自分』なりに『教育』の大切さをいつも意識して過ごしていきたいなと思っている。

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