My Place誕生秘話~障害児通所支援事業編~

子ども

前回の内容から少しMy Placeの根っこの部分を書いています。

My Placeでは障害児通所支援事業をやっています。

正式な言い方だと耳に馴染みが無いかもしれないのですが放課後等デイサービスや保育所等訪問支援ってヤツです。

この事業をやろうと思ったこともMy Placeの立ち上げにはすごく重要なテーマだったのです。

大学生の頃の話

僕は大学生の頃から小学校の特別支援学級のボランティアによく行っていました。何だかこういう話をすると偉いだとか立派だとか言われるのですが、全然そんなこと無くて暇で居場所が無かった僕の行き先のひとつがそこだったというだけなんです。

たまたま、大学1回生の頃にアルバイトみたいな感覚で声が掛かった車いすの中学生の手助けをきっかけに学校に出入りするようになり、そこでたまたま先生や子どもたちと仲良くなったからというくらいのきっかけでした。

でも、その大学生の時に出会った先生が僕にとって特別支援学級のイメージを変えました。

僕が子どもの頃、まだその時は障害児教育と言われている時代を生きた感覚では、正直「障害」とは目に見えるものがほとんどだった気がします。だから何となく「あの子には何か障害があるんだな。」というのが分かり、そして何となく「あの子には優しくしないといけないよな。」くらいの感覚しか育っていなかったなと振り返ります。

でも、今でも覚えているエピソードで小学校2年生の時に担任の先生がクラスメイトを褒めたことがあったんです。

「〇〇くんはねとっても立派なんです!〇〇ちゃん(当時障害児学級に通ってた友だち)の垂れた鼻水を何も言わずに自分の袖で拭ってあげてたんです!そういう誰かの困っている時に助けてあげられる姿は素敵ですね。友だちの鼻水は汚い物では無いからね。」と言っていたんです。

僕は正直心の中で「いや、普通に汚いやろ。」と思ってしまったんです。

僕は子どもながらに障害があるヤツも無いヤツも汚いものは汚いし、それがわざとかわざとじゃないかとかそういう話ならともかく、障害がある子の鼻水は汚くないはある意味乱暴に感じてしまったんです。

僕が大学生の頃にボランティアの現場で出会った特別支援学級の先生は違いました。障害があるとかないとかでは無く自分の目の前にいる子に本気で向き合っている姿を感じたのです。

そして、何の知識も経験も無い大学生の僕にとっては障害種別や特性なんて全く知りもせず、今目の前にいる子が楽しく何かが頑張れるように一緒に楽しもうくらいに思って過ごしていました。

学校の先生になって

学校の先生になったきっかけは、色々あったのですがやっぱり大学生の時に小学校に通っていたことは大きいと思います。

最初は右も左もわからず色々な先輩の先生にひっついて勉強し続けていました。今思えば最初の3年間はひたすら仕事に向き合い続けていました。自分なりに色々試行錯誤しました。特別支援教育のこともそれなりには本を買って実践したりはしていましたがとにかく子どもたちの目線に合わせて楽しい時間を過ごせるようにと必死に働いていました。間違った指導も何度もしたとは思いつつも、子どもたちの今を変えるために必死でした。

ただ、転機はやってきます。

僕が教師になって4年目の年でした。3年間持ち上がった子どもたちが小学校を卒業し、初めて違う学年の子どもたちを担任しました。僕が受け持ったのは小学3年生の子どもたちでした。

その学年の子どもたちの中には僕からしても驚くような子がたくさんいました。1、2年生でもこの学校で過ごしてきたはずなのに学校の約束事は知らない子が盛りだくさん、トラブルもしょちゅうでした。保護者の方々も色々な心配を抱えておられる方が多く、何でかもう色々な意味で大改革が必要でした。

まずは、徹底することを決めました。

学年には4クラスがありましたが、とにかく学年のルールや感覚を統一するために少しずれたなと思ったら「学年集会!!」と声を掛けました。もちろん、無駄な強制や無茶な厳しさを与えるのでは無く、あくまでもひたすら子どもたちと確認作業です。「これは良くない!誰かが困る!」「こうして欲しい!そうしないとこうなる!」ひたすら声を掛けると1学期が終わる頃にはすいぶん落ち着いてきました。

そして、こうした学年全体の姿を眺めていると同時に気が付いたことがあります。悪気無く周りの子どもたちと違う動きになっている子どもたちの存在です。これまでの僕であればそういう子は一人ひとり合間の時間に繋がり何とか理解していこうとしていたと思いますが、この時期の僕はそれを選びませんでした。

理由は、卒業していった当時中1の子たちの存在でした。当時中1だった子たちの中にも全体の動きとは別のことを選ぶ子の存在はたくさんありました。でも、その子たちのことを学年の先生や他の先生と何度もコミュニケーションを繰り返して支えていったつもりでした。

その子たちが中1になり続々と不登校傾向になっているという話をよく耳にするようになったのでした。

僕は当時何となく特別支援教育についてそこまで重要視していませんでした。わざわざ診断を付けたり、療育に必死に通わせたりしなくとも少しずつでも姿が変わっているんだし良いじゃないかくらいの気持ちはありましたし、多くの保護者の方々も同じような意識でいたと思います。

ただ、僕がもう少し「知識」をきちんと付けていれば、自分の目の前にいない子どもたちにもそれが「お守り」になるかもしれない。そう感じて僕はこの年から必死に「特別支援教育」の勉強に時間を使うようになりました。

特別支援学級の担任になって

教師になって6年目の年。僕は特別支援学級の担任の先生になりました。それと同時に特別支援教育コーディネーターの役割を務めることになりました。

僕は自閉症・情緒障害学級の担任となり、8人の子どもたちの担任になりました。毎日8人それぞれの子どもたちの担任をしていると学校内の特別支援教育の課題がたくさん見つかってきました。

僕の朝一番の仕事は、子どもたちの時間割の確認です。それぞれの子どもたちがその日何をして、どうやって過ごすのか特別支援学級の担任の僕のところにはほとんど入って来ないのです。だから朝一番の僕の仕事は8ヶ所の教室を巡って通常学級の授業を全て調べてそこからそれぞれの子の1日の生活時間を決め、加配の先生や協力員さんの行き先ややってもらうことをまとめ、伝えるということを行います。新しいことを教える場面では自分が授業をし、定着を促すための場面では他の先生の力を借ります。

ただ、これも予定通りには行きません。低学年の先生が子どもたちが下校したら特別支援学級のサポートに来るという学校体制を組んでいて職員会議で提案し承認されていたって平気で来てももらえないことが多々ありました。それについて何度か話をしに行っても「忙しくて……」と答えられた日にはもう返す言葉すら見つかりません。

職員会議では何度も何度も言いにくいことを言いました。

特別支援教育、合理的配慮の提供については文部科学省だってもうずいぶん前から発信している内容でした。国がインターネット上に公開している情報についてはやっていて当たり前というピリついた緊張感を持たない先生の方が大半で、何度も会議の終止符はこの言葉で終わるのです。

「だって人手が……」

一方で、特別支援教育だよりというお手紙を学校全体に配布することでたくさんの通常学級に在籍する子どもたちの保護者の方からの相談をいただく機会が増えていました。

たくさんの教室でニーズがある。学校全体の課題もたくさん感じるそんな中さらに僕に色々なことを考えさせられるタイミングがやってくるのです。

人事は僕には決められない

僕が特別支援学級の担任をしたのは、たった1年です。決して保護者の方と上手くやれなかったワケでも無いですし、子どもたちもどんどん姿を変えていたと思います。

僕は次の年、通常学級の6年生の担任になりました。僕が以前に担任していた学年の子どもたちです。子どもたちは3年生で出会った時よりも随分成長していましたし、もう誰が担任したって大丈夫でしょ。くらいの気持ちはありました。

でも、クラス数が減り、40人の学級になることや色々な理由で僕は特別支援学級の担任を1年で終え、通常学級の担任になったのです。

別に僕は希望したワケでも何でもありません。逆に希望は特別支援学級の担任にして欲しいと希望しました。でも、結果はそうではありませんでした。

あるお家の人からは「そういうわけでは無いのはわかっているけれど裏切られたような気持ちで……」と言われました。

そのくらいの気持ちで保護者は学校に子どもを預けているのだなと感じましたが、やっぱり辛い気持ちにはなりました。

でも、逆にこの頃僕は決まった結果を受け入れ気持ちを切り替えて働くことにしました。

とにかく試せることは全て試そうと思いました。どんな子にも対応する通常学級は本当に作ることができるのか?どこまで学校のルールを破らずに合理的配慮の提供が可能か?やってことの無いことをとにかく試してみました。

そして、自分自身で確認することができました。「学校は案外なんでもできる。」ということを。

きっと人手では無く、「知識」と「仕組み」だ

個別の配慮と聞くとすぐにその子だけを特別扱いをすることだと勘違いする人がいるが僕はそんなことは個別の配慮だとは思っていないし、それをすると一人にひとり誰かサポートする人を付けないといけなくなるから最初から無理だと思います。

多くの学校に今足りていないのは圧倒的に「知識」と「仕組み」だと思っています。

決して僕だって十分ではありません。

でも、ある一定の「知識」が身に付いてからは子どもや保護者に正しいアドバイスも出来るようになりましたし、正しい権利を制度を伝えることができるから多くのサポートを提供することができるようになりました。

では、その「知識」はどうやって手に入れたか。時間を掛けて勉強したからです。仕事で得られる時間以外にひたすら学んで身に付けたのです。

理由は簡単です。自分の目の前の子どもを何とかしてやりたいという切実感からきたエネルギーと「時間」があったからです。

寝る時間を削って作った時間。学校を辞めて作った時間。とにかく「時間」を作って「知識」を得たのです。

こうした先生たちの時間が無いのはなぜか?

先生がサボっているわけでは無いことは百も承知です。僕はたくさんの良い先生を知っています。

でも、その良い先生たちが力を発揮しづらくしているのは何か?「仕組み」だと僕は思っています。

学校というのは大きな組織です。意思決定のスピードの速さはほとんどの場合、管理職の先生に委ねられます。

どんなに素敵な担任の先生だって組織としての答えがNOならば動くことができません。そんなの無視して動いてしまうのが熱い先生だ!という意見もあるのは知っていますがそれは僕は個人的には反対です。

あくまでも教育者としてルールを守って生きることを教えることは大切だと僕は考えているからです。ルールは気に入らなければ破ると教えるのではなく、守りつつ意見を出して変えるために動くが正しい行動だと僕は思っています。

無いものは「作る」

僕は目の前にたくさんの子どもが通ってくれる「学校」という場所を辞めました。

そして、いつか学校と繋がって担任をしてきた時には救うことが出来なかったたくさんの子どもたちを救う「仕組み」を作ろうと思いました。

それが家庭学習応援施設My Placeです。

放課後等デイサービスでは、学校の中ではなかなか育ちにくい力にポイントを絞って保護者の方々とも一歩踏み込んだコミュニケーションを取りながら専門的な支援を提供することができるようになりました。チームで子どもに関わることでできることの幅はうんと増えました。

①自分で決めて、自分で楽しみ(充実感を得られるようなこと)を作り出す力
②相手に合わせた正しいコミュニケーション力
③自分から正しくSOSを出す力

どれも僕たちがどんなに小さな子であっても、障害特性の強い弱いに限らず大切にしているポイントです。

そして、令和5年3月から保育所等訪問支援のサービスを提供するようになったことから新たな仕組みを生み出すことができるようになりました。

多くの保護者の方は、自分の子どもにこんな支援があったらいいのにな。こんな時に一言あるだけで変わるのにな。と思っていてもなかなか言葉にして伝えることが出来ません。

本当は、子どもの権利なので伝えても良いことでも遠慮してしまうことがたくさんあることを僕は何度も見聞きしてきました。あまりにも忙し過ぎる先生を見て言えなくなる気持ちはよくよくわかります。

でも、我が子が通う「今」を救うということを諦めざるを得ないというのはあまりにも悲しいことです。

じゃあ、学校内で必要な支援を受けるきっかけを先生方と良きコミュニケーションを取りながら作り出すことが出来ないのか?

それを解決する仕組みに役立てているのが保育所等訪問支援です。

保護者の方が僕らと契約して、僕らが支援員を派遣するサービスです。厚生労働省が正式に作っているサービスのガイドラインにも子どもへの直接支援が予定されており、未来型の支援事業とも書かれています。

僕は学校で働いて何度も何度も「今の学校は時代遅れ!」「学校はオワコン」といった発信に腹を立ててきました。

もちろん、課題はたくさん感じたからこそ辞める選択をしたわけですが、まだまだ未来を諦めたわけではありません。学校と繋がるサービスが当たり前の世の中を作り出してその後の子どもたちの未来を変える。それが僕たちの真にやりたいことなのです。

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