悔しさはバネになるのか

教師

 決してキレイでは無いがこれは僕の『膝』だ。
 今日はこれにまつわる1つのエピソードを紹介しようと思う。
 僕は1年と少しサービス業で社会人をしてから教師になった。それまでもかなりハードな仕事をしていたが、教師になって僕の体で1つ変わったことがある。それがこの『膝』だ。

 僕は身長が181センチある。結構デカい。眠気が冷めずに電車に乗れば電車の入り口で頭を打つタイプだ。そんな僕が小学校で働けば1つ困ったことが起こる。

 『子どもとの目線の違い』だ。僕が直立して話を聞けば子どもを上から見下ろすことになる。僕はその距離感が嫌いだった。なので、子どもたちとしっかり話をする時は膝を付いて話を聞くようにしていた。それが砂だろうと、アスファルトだろうとそこは僕のこだわりでもあった。そんな毎日を続けていれば1年目の夏には僕の両膝は丸く黒く硬くなっていた。だけど、僕が教師である以上これは自分のこだわりとして貫こうと決めたことでもあった。

 そんなある日、たまたま僕の教室に来たある先生が言った。「あなたは背が高いんだからきちんとしゃがんで話を聞かないと威圧感が強すぎる。教師はそういうところも気にする人でないといけない。」と。その先生は決していつも僕の担任をする教室にいるわけではないずいぶん目上の先生だった。僕はあの時「何だ。たった一度の姿を捕まえて教育者として否定されるのか…」と一気にその先生が苦手になった。とまぁもともと築かれていなかった信頼関係はその後も築かれることなく終わったのだが。

 このことからの『学び』

 ただ、僕には幸い、その後たくさんの刺激をくれる先生方との出会いがあり、『教師』という仕事を楽しく全うすることができた。

 では、僕はこの出来事から何を学んだか?
 『教育』を『点』では無く『線』でしかも『多軸』で捉えるべきだということだ。この出来事は別に僕に悔しさをバネにして「見返してやる!」みたいなエネルギーをくれたわけではない。でも、僕は『教育者』だ。自分の経験全てを使えるものはとことん使おうと思っている。

 僕たち人間はどれだけ想いを寄せたってその人にはなれない。想いが伝わらないこともあれば、見えない努力も存在する。自分の経験を生かして無数のパターンを『想像』しないといけない。もちろん、嘘を付かれることもごまかされることもあるかもしれない。それでも自分には見えていなかった『見えてはいない努力』を踏み潰すよりものんびり成長を待ちながら応援し続けるような『教育者』でありたい。

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