『本人中心』の教育

子育て

 僕は今、特別支援教育で学んだことを発展させて福祉分野の勉強も始めている。

 その中でどの講師の方も強く言われることの中に『本人中心の支援』という言葉がある。僕はこれを聞くたびに自分のこれまでの振る舞いを反省する感覚に追われている。

 今日は『本人中心』の教育というテーマで書こうと思う。

誰のための支援か?

 僕が教員時代たくさんの先生方の授業を見てきた。もちろん僕も毎日授業をしていたし、見られることもたくさんあった。

 そのやり取りの中でよく『池田先生はどんな子どもたちに育てたいの?』という問い掛けをされることがたくさんあった。だけれど、僕はこれに結局7年半すんなり答えられずに教師生活を終えてしまった。

 学校には目指す子ども像があり、学年にはどんな子どもであって欲しいか願い、そしてクラスの担任はどんな人に成長して欲しいかを一生懸命語りかける。別に僕も想いを持って働いていないワケでは無かった。でも、『どんな子どもに育てたい』という問いに対して満足の行く返答が出来たことが無かった。

 もちろん、最初の数年は余裕も無く、勢いだけで乗り切る毎日だ。無かったのかもしれない。だけれど、5年も経てば色々なことを潜り抜けていたはずだ。結構深刻な話にだって首を突っ込んだこともあるし、教師として大切なことは自分なりには持っていたと思う。それでも答えに困っていたのはなぜなのだろうか?

どこまでいっても僕の人生じゃない

 僕は学生時代決して模範的な学生であったワケでは無いけれど、決して悪いことばかりでは無かった。楽しい思い出もあるし、失敗もたくさん経験した。そうした自分の人生を振り返った時に、今の子どもたちにも使える経験は結構ある。日々残業代も出ること無く4~5時間の時間外労働が続いたってへっちゃらで働いていた僕たちは決して仕事を適当にこなしていたワケでは無いし、想いもあった。だけれど、僕は色々なことを子どもに伝えてはきたものの最後に選ぶのは『あなた』だよ。という余白はいつも残しておいてやりたいと思っていた。

 こうした余白を残すと最後の最後まで自分の想いを貫いてまとまりきらない雰囲気になることもよくあった。何度も繰り返し勉強を教えることはしても、「わからなかったら聞きに来て良い時間」だけ確保して苦手な子をしょっ引いて横で見張って学習させるということはおよそやらなくなっていた。これは今も一緒だ。

 なぜか?僕は子どもたちの人生の『応援団』であり続けると決めたからだ。

『本人中心』とは?

 応援団は決してプレーには参加しない。もちろん割って入って助っ人になれば点数はたくさん取れるかもしれない。でも違う。

 僕たちが目指さないといけないのは『本人中心の教育』だ。

 確かにもどかしいこともたくさんある。もっともっと勉強すれば点数は伸びるのにもったいないな…と思うこともたくさんある。親は学校の先生や僕のような教育者に「家で全然勉強しないんだから仕事なんだから勉強くらい厳しくやらせろ!」と思われるかもしれないが僕はやっぱり『本人』から出たものに寄り添いたい。なぜなら僕が日々預かっている子どもたちは『親』の人生では無く『自分』の人生を生きるからだ。

 ついつい大人は望ましいことが起きないようにレールを敷いてしまう。大人は経験者だから次に起こることが見えるからだ。だからと言って僕ら大人が子どもの人生に割って入ってせっかくの山あり谷あり、急カーブのワクワクするような人生を削り取って平坦な道にして良いはずがない。

もちろん、「こんなことって素敵だよね。大切にしたいよね。」ということは嫌と言うほど言い続ける。それでも最後にこちらの言うことに耳を傾けてくれるかで全てが決めるのだ。どうすれば大人が喜ぶかはわかっている。でも、僕はきっとこれからも『本人中心の教育』を探し続けるのだと思う。

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