同じことが当たり前の文化から抜け出す

子育て

 子育てをしていると気が付くことがある。僕たちは無意識のうちに「同じこと」が当たり前の文化を教え込んでいるのだと。

 僕は、子育てにおいて『言葉』に結構こだわりを持って生活している。これは何もキレイな言葉、正しい言葉を使いましょうというものでは無い。僕たちの吐き出している言葉は子どもたちの生きるために使われる大前提の意識を作り上げているのではないかと思うからである。

 例えば、子どもが小さな時、何かにつけて「一緒だね。」「同じだね。」と話したことは無いだろうか?かき氷の選んだ味が一緒。服の柄が一緒。好きな食べ物が一緒。などなど色々な『一緒探し』をした年齢はなかっただろうか?

 もちろん、家庭でのこういうやり取りは未就学児の極々幼い時代のやり取りであることがほとんどだろう。
 しかし、これが集団参加する歳になってもなお求められている風潮があるのが今の日本の小学校教育なのではないかと僕は思う。同じ持ち物を持ち、同じ方法で順番まで決めてゆっくり進める。これが導入期の多くの小学校教育の在り方だと思うが僕はここに難しさや問題が隠されているのではないかと思っている。前置きが長くなったが今日は『同じことが当たり前の文化』だけでは危険な点について少し書こうと思う。

低学年こそ差は大きい

 幼いほど発達の差が大きく感じられるのはみなさんがよく知っている事実だろう。そりゃそうだ。月齢が12ヶ月の赤ちゃんと生まれたての赤ちゃんは大きさも出来ることも全然違う。ただ、その子たちが数年して集団に入ると何の配慮も無く一律同じ集団で内容が決められている枠の中に押し込まれるのである。
 嫌味な言い方をあえてしたが、これについてはしょうがない部分もある。学校という場所は、管理にあたる大人の数が極めて少ない現状でそれぞれ別の対応をというのはなかなか難しさがあるからである。
 だが、これはハッキリ言って完全に大人の文脈で、効率化を図るために投げ掛けられる「みんながピシッと揃っていると気持ちがいいね。」だとか必要以上に『同じこと』が良いことという印象を与える表現は避けるべきだと思う。

 もちろん、ダンスや合奏や斉唱など『合わせること』で目的が達成されるものは別だ。

 つまり何が言いたいかというと、人と『合わせること』はかなり特殊な『活動』であって深い意味を持ってする『活動』として、あくまでもその『集団』が可能な範囲でのみ行われるべきだと僕は考えている。

突然繰り出される『みんなちがって、みんないい』

 学校で使われる教材には『流行りの教材』というのがたくさんある。
 そのなかで金子みすゞさんの『わたしと小鳥と鈴と』という詩を扱うことがある。
 めちゃくちゃザックリ言うとそれぞれ良いところがあるよねという詩だ。
 だが、こうした教材に取り組む学年になればもう『文化』は根付いている。『同じことの方が安心だよね。』という文化だ。毎日、どの子にも同じ宿題が出され、学び方も学ぶペースも最終的な授業の落としどころまで全く同じで進み行く毎日を経験している子どもたちに伝えられる『みんなちがって、みんないい』本当に刺さるのだろうか?そんななかで出て来るチャレンジはきっとみんなに叩かれない程度の挑戦に違いない。場合によっては『同じになれないこと』を辛く想う子どもや家族が生まれてきても異常なことではない。

あなたは何を選ぶ?の教育の価値

 インターネットの広がる現代社会は『価値』や『文化』が広がりやすい。
 日本の田舎町にいながらリアルタイムで世界中の『文化』に触れられるチャンスが舞い込んでいる。無数の選択肢が提示され、何に興味を持っても良い時代だ。選択肢が増えれば増えるほど、自分と『同じ』は減っていくに決まっている。
 幼いころから『どうしたい?』の練習をしておかなくてはならない気がしている。たくさんの経験をして、たくさんの選択をして少しずつ『自分は何を選ぶのか?』に向き合わせる準備を進めて行く必要があると思っている。
 なぜなら何度も何度も同じを求められて、特別人と違ったことを選ぼうとすれば飛びぬけていないと認められもせず、ある程度の歳になって突然『あなたらしく自分にあった選択を。』と言われたって難しいに決まっているからである。

 僕たちは大前提『ちがっている』だからこそ、無数にある選択肢の中で重なった『似ている』や『同じだ。』に心が躍るのではないだろうか。一緒でないといけない『集団』は人によっては苦しくてしょうがないかもしれない。

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