『ルール』は得するためにある

雑記

 日本という国で暮らし、日々さまざまなことが起こる中、ルールについて改めて大切だなと感じることが多くなっている。
 「それはルールなの?」「マナーなの?」「お願いなの?」「命令なの?」と社会全体にも子どもを取り巻く環境にも、誰かの『良かれ』が多くの人たちの規範意識を薄れさせているような気がしてならない。
 僕は、『ルール』は本当に大切だと思っている。
 守ることも重要だし、見直すことも重要だと思っている。
 今日は『ルール』についての僕の考えを書きたいと思う。

1.『ルール』は何のためにあるの?

 こんなことを書いていると何だか重箱の隅をつつくような細かいことを言う人間だと思われ兼ねないが、そういうわけではない。
 大前提として、僕は『ルール』は少ないに越したことはない。と思っている。
 確かに、どんなコミュニティーを推進するにしろ『ルール』が必要になってくる。
 だが、増えすぎることは人の『思考停止』を生みかねない。
 問題の所在を明らかにし、解決策を見出す。この繰り返しが人を育てると思っているからだ。

 そもそも『ルール』はなぜ必要なのだろうか?
 僕は、『自分のことを守るため』だと思っている。
 僕が一緒に働いていたすごく尊敬できる先生が、
「世界を色いろと旅して感じたのは、どこの国にも共通してある法律は『奪うな』『殺すな』なんだ。『ルール』ってヤツは自分の安心を守るために存在するんだからね。」
 と教えてくれたことがある。僕は、これに心底共感出来た。

 その視点で見た時に、『学校』という集団は本当に『ルール』が多すぎる。ただ、あまりに『ルール』が多すぎることによって利用している子どもも、『ルール』を作っている大人も把握しきれていないようなことが現実に起こっている。

 これを繰り返すとどうなるか…
 子どもたちは、バレなければ『ルール』は破っていいもの。場合によっては、バレたら運が悪い。残念くらいに思わせ兼ねない。大人が便宜上作った『ルール』の意味なんていくら伝えたって破った方が『得』だと感じさせてしまう『ルール』は絶対に消すべきだと感じる。
 身に付けるものを揃えることで本当に子どもは守られている部分が大きいのだろうか。
 わかろうがわからなかろうが毎日提出だけは厳粛に求められる宿題を提出することは本当に子どもを守っているのだろうか。
 生きていく上で本当に必要なことが身に付く『ルール』になっているかは厳密に判断すべきだと思う。

2.『要請』の影響

 今回のコロナ禍によって、国や自治体からの要請がいかに社会に影響力があるのかを国民は身をもって思い知ったのではないだろうか。
 一つ意見や判断が下されれば『批判』は付き物ではあるが、それに対し、「これはあくまでお願いしたまでです。」 と言った返しが印象的だった。

 そんな中、ふと教師時代のことを思い出した。
 『学校』という場所は、学校全体の約束以外にも学年の約束やクラスの約束などローカルルールが結構ある。
 ただ、これに納得がいかないと保護者から『意見』が出るとすぐに『特別措置』が取られたり、「いやぁ、私の想いを伝えただけなので絶対ではありません…」と答える教師を何人も見てきた。
 でも、『教師』や『学校』っていう場所が発する『意見』は子どもたちの人生に大きく影響がある。人によって、文化によって、宗教によって違いが出るようなことを『ルール』にしてしまうことは、誰かを傷つけてしまう可能性が高い。
 インターネットや科学が発展して多くの人が、多様な価値に触れられる『環境』が整えられた。今まで知らずに隠して生きていたことを表明出来る時代にもなった。そんな時代に古い時代の決まり、個人の価値観を押し付ける『ルール』が残り続けていいはずがない。

3.教えるべきは『ルール』ではない

 小・中学生と毎日関わっていて思うことは本当によくも悪くも『純粋』『単純』『素直』な子が多い。僕ら大人の一言は、多大な影響を受けることは明確だ。
 僕自身、『教師』という仕事に乗る『責任』の大きさに悩んだ部分は大きくあった。ましてや公立の小学校で働く時に、「僕を選んだわけでもない人に自分の考えを押し付けてしまうことの怖さ」をよく感じていた。

 以前、僕は長男と次男の兄弟喧嘩があまりに続くので、厳しく注意をしたことがあった。
 すると、長男が泣きながらこういった。
「学校や学童保育では、『年上には逆らうな。年上には丁寧な言葉を使え。』と言われる。でも、ズルを何回も繰り返す年上の子には何にも言えない。言い返したらどうせ居残りか話し合い、言い返さなかったら弱虫って言われ続ける。どうしたらええの?年上には逆らうなって言われるけど、弟は全然言うこと聞かへんし!!」
 長男は1年生だった。保育所で過ごしていた時には一切口にしなかった『年上。年下。』という概念はここから来たのか。と痛感した。
 僕は、たった1歳2歳の年齢差でマウントを取り合う子に育てるつもりは無いし、人を大切にすることに相手の年齢は関係ないと思っている。
 僕の教え子は、90%くらい僕に敬語なんて使わないし、それでいいと思っている。そんな『見せかけの敬語』より行動や言葉で相手が自分を大切にしてくれているかがわかるからだ。

 もう『教育』の場で場面や状況、環境が限定されているようなことを教えている暇なんて無いはずだ。それよりも明るい未来の世の中を作るクルーとしてより多くの価値観を受け入れられる土壌作りに時間を掛けるべきだと個人的には思っている。

 うちの息子たちは今、多くの『先生』に囲まれている。
 一緒にゲームをやってくれる『先生』、自分の力に合わせながら上手に場を進めてくれる『先生』、優しくほめてくれながら、正しい方向へ導いてくれる『先生』
 彼らにとって僕の周りにいる高校生・中学生・小学生が『先生』なのである。一緒にお菓子を食べてもらったり、好きな本の話をしてもらったりするなかでも大きな学びがあるようである。
 簡単な約束事がいくつかしかない場所でも、子どもはちゃんと『失敗』をしながら、繋がり、学び、遊び、成長していっている。
 子どもって本当に『単純』なもんだ。

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