働く環境に文句ばかり言っていた『自分』へ

雑記

 五年ほど前、僕は今の家を建てた。
 五年ほど前と言えば、教師になって三年間同じ学年の子どもとあぁでもない、こぅでもないと過ごした後、新しい学年を受け持ち、「何で一応若手の僕がこんなに毎日しんどいことをさせられるのか。」と嘆いていた頃だ。

 家庭では、二人の子どもに日々奮闘しながら子育てをしてくれている『家族』がいる。
 子どもの成長や将来を考えることが大好きな僕。なのに、一番大切な『我が子』のことは置いてひたすら『学校』のために奮闘していた。
 この頃には、『仕事』で評価されることが喜びにはなっていなかった。公務員ってヤツはよく出来たシステムで、どれだけ追い詰めらるような仕事をこなしても、手を抜いてももらえる『給料』は同じだ。自分の取り次ぐ電話が勤務時間外であることも相手は知らずに毎日時間外の労働が続く。何なら人より頑張れば頑張るだけ『時間外』の仕事が増えていく。

 やればやるほど周りの教員からの評価が上がっていくのがわかる。やればやるほど目の前の子どもの姿が良くなっていく。やればやるほど自分の無力さに気が付いていった。

 やり甲斐はあった。『教育』について考えることはめちゃくちゃ面白かった。ただ、口から出る『言葉』はほとんどが目の前に転がる文句ばっかりだった。そんなことまで見えてるんだと口に出すことが精一杯の抵抗だったのかもしれない。Twitterには、過去の僕のように愚痴や苦悩が溢れている。#教師のバトンというタグはもともとは教師の魅力をより広く伝えたいという意図で設定されたようだが、流れてくる呟きのほとんどが『問題提起』ではなく、愚痴や暴露話で見ていると疲れてしまうような雰囲気さえ感じる。

 あれから5年以上の月日が経った。
 僕は、朝から晩まで自分の仕事のことを考えている。家に帰っては保護者の方に連絡を入れたり、朝から連絡を入れたり、ブログにYouTube、教材作り、掃除に洗濯に大忙しだ。今までやったことの無かった税金やお金の勉強だって始めた。明日の生活の保障だってもはや確かなものはない。
 でも、もう毎日『文句』は言っていない。毎日小中学生とあぁでもないこぅでもないと過ごす日々はそのままに僕の心には『余裕』が生まれた。

 もしかするとこれを読んでいるどこかに目の前のことが曇って見える方がいるかもしれない。
 『余裕』を持つことは決して悪くはない。
 心の『余裕』は、あなたの毎日からネガティブ『文句』を消し明るい毎日を呼び寄せることに繋がるかもしれません。

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