労働者としての『教師』

教師

 みなさんは、『教師』という仕事にどのような印象を持っているだろうか。
 僕自身、実際に免許を取って採用試験を受けるまでは、さほど『教師』という仕事に憧れたり、良い印象を持っていたりはしなかった。
 別に子どもと接するのは嫌いじゃないしくらいで興味はあったと言えばあったが、現実になってみたいと思ったのは、新卒で入社したトイザらスの仕事を辞める直前だった。
 ただ、なってみると『教師』という仕事はすごく尊ばれる仕事だということになってみて初めて気が付いた。
 僕は校区に住んでいたこともあり、地域で生活するだけで近所のおじいさん、おばあさんから声を掛けられる。
「先生だったんですね。いつもご苦労様です!!」
 と知らないお年寄りに声を掛けられるのは何だかくすぐったい気持ちだったが、その感覚に『時代』を感じることもあった。

 一方で、保護者の方の中には僕らが公務員であることを理由に罵ってくる人とも出会ったことがある。
「教師は税金で給料もらってるんやから、俺らは高い税金払ってんねんからちゃんと言うこと聞いてしっかり働いてもらわないと!!」
 と言う趣旨の話をされた時には、
「あなたの払った全税金から僕らの払っている税金を相殺して、全公務員の頭数で割ったものは恐らく微々たるものなのでお返しするので黙ってもらえますか?」
 と思っていた。というより、そもそも『給与』は決められた労働に対しての対価だから、別に誰かと主従関係を結ぶようなものではない。

 僕は『教師』を辞めるという選択をしたが、『教師』の仕事が面白くない、大変だから辞めたわけではない。
 『教師』という仕事に正しく光を当て、もう一度みんなで『教育』に向き合いませんかという『発信』をするためにあえて『教師』を辞めたのである。
 以前、元同僚の先生と電話で話していたのだが、何だか『教師』を辞めるってことが「ヤバい、アイツが打ちこわしに来る!」ぐらいに勘違いしている先生がいるよねという話になったが、別にそんなダサいことするために家族を巻き込んで転職を選んだわけではない。

 7年半働いてみて、『教師』の世界の不思議な慣習や文化について、変えていかないといけない感じることはどんどん声を挙げた。
 ただ、その旗振りのほとんどは僕らに権限は無かった。なぜなら僕らは『公務員』上からの命令には基本的には逆らうことが許されない仕事だからだ。本意で無いことであっても上の意向ならやらなきゃならないこともたくさんあった。
 それは単に自分の学校の校長とかでは無く、もっと上はたくさんいる世界だったのだ。
 
 つまり、僕が感じた『教師の労働』の問題点は基本的に『人為エラー』ではなくて『システムエラー』なのだ。
 だからこそ、僕らは一般市民の一人として声を出して、多くの『仲間』を集めて向き合わないことには将来の教育は変わらないのである。
 
 ある人が自分の子どもの学校の担任の先生をすごく批判していたとしても、何も変わらないのになと僕は思っている。
 例えば、スーパーでの無料試食の配り方が自分にとって気に入らなかったとしよう。
 気に食わないからといって文句言っても基本的に配っている人はお給料を同じだけもらうだろうし、その人にとってはそれ以上の過剰なサービスをしなくたって成立するわけだから。基本的にそれまでだ。
 本来消費者が吟味しなくてはいけないのは『商品』の質であって、試食を配る人の質ではない。通り一片意見は聞くだろうが、本質的に何かが変わるわけではない。
 乱暴な言い方ではあるが、公立の小中学校もこれに近い。ある担任を責めたところでその人は末端の末端であって、見えない事情に包まれている。
 本来吟味しなくてはいけないのは国全体の『教育』の仕組みであって、その方針を決めたりしている大部分は『政治』の意向が絡んでいる。
 ある意味、本当に議論しなくてはいけないのは、この国が正しく『教育』にお金と人を動かしているかであって、一教師の所作ではないはずである。

 僕ら大人が『教育』に対して意見を持ったり、考えることはとてもいいことだ。
 学校にただただ通わせるような無関心よりよっぽど良い。
 ただ、『子ども』がこの日本において未来を支える大きな財産であると同時に、それを導く『教師』も日本における大きな財産だと思う。
 
 『教師』という立場では言いにくいことも数限りなくある。僕自身が経験者の一人として『社会』に発信することで何かのきっかけになればと思っている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました