オンリーワンになるために『分母』を減らせ

教師

 一昨日の夜、夕食を終え、子どもが風呂から出るのを待っている時間電話が鳴った。
 教え子からだ。聞くと何人かの同級生と家の駐車場でたこ焼きをやって楽しんでいるらしい。どんな雑な誘いであっても求められれば可能な限り足を運ぶ。これがモットーである僕は子どもを寝かして、いくつかコンビニで差し入れを買い向かうわけだ。
 そうこういう『ちょっとしたこと』にも『教育』は詰まっているかもしれないからだ。

担任の先生って… 

 ここからの話は、誰かが良くないとか、こうしろああしろ何て話ではなく。僕に聞こえてきた話を踏まえて僕の意見を書くものである。だから、怒っているわけでも、バカにしているわけでもない。聞こえてきた事実をもとにした僕の意見だ。

 話は戻って、教え子たちの集まりに顔を出した時の話だ。
 ある子が言った。「俺、〇〇先生持ち上がって担任してもらったことあるのに忘れられてたショックです…」こういう話は実際によく聞く話だ。
 だが、僕はこの考え方には良くないなと思っている。
 考えてみて欲しい。これを読んでいるあなたは先週一週間の朝食、昼食、夕食を順番に言えと言われてパッと答えられるだろうか?僕は無理だ。〇曜日と言ったらどこどこに行って、「あっ、だから〇〇食べた!」なんてわかれば良い方でほとんどはわからない。
 言い方は悪いが、学校の先生にとって子どもたちは何も無ければ仕事で接する『お客さん』だ。コンビニ店員が毎日のお客さんの顔を全て覚えているだろうか?
 確かに小学生の期間というのは6年というほんの短い期間だ。その中の1年間を担任で受け持たれるというのは子どもにとってはめちゃくちゃ長く感じるかもしれない
 でも、相手の先生の立場になって欲しい。だいたい3~4クラスの小学校の平均人数は120人前後だ。それが毎年入れ替わる。図工や音楽などの専科を受け持つ先生にとってはいくつかの学年をもっていれば1年間に数百人の『個性』と向き合って生きていかなくてはならない。日々の生活や仕事でも新しい『出会い』なんて繰り返される。たったの1年だけをとってみたって子どもにとっては1人の先生かもしれないが担任にとっては30人~40人の児童生徒のうちの一人だ。10年も続けていれば1000人以上の子どもの『データ』が頭の中に残っていくわけだ。そりゃ忘れていてもおかしくない。
 僕はこの『想像力』の希薄さについてこの出来事だけではなく、大人の社会にも繋がる傾向を見ている。世の中を生きる上で『想像力』こそ『優しさ』だと僕は思っている。

僕にもこんな経験がある 

 「僕前先生と道で通りがかったけど無視されました…
 僕もこういうことを言われたことが何度かある。
 そもそも、言い方に悪意さえ感じる
 教師の仕事をしているとまぁまぁ校区では顔を指す。ましてや僕は自分の働いていた学校の校区に住んでいるわけだ。知っている人とすれ違うことなんて日常的にある。近所のコンビニのレジには結構な確率で教え子がいるし、バスに乗ればたいていは知った顔と出会う。
 ただ、学校と言う場を離れれば、あくまでもみんなプライベートな時間だ。話しかけられれば話を返すが、「あっあの子教え子だな。」と思っても話し掛けないことの方が多い。それぞれにはそれぞれの生活がある訳で、ただ『仕事』で知ったということを理由にズケズケと人のプライバシーを侵害するような行為は僕には出来ない
 それに、こっちが知らないのに向こうが知っているなんていうこともよくある話で、何だかこっちをチラチラ見てコソコソ話しているけれど、正直そこまで知らないなんていう子も地域にはたくさんいるのだ。そんな環境で僕が知っている子どもを見れば一目散に「おぉ、〇〇じゃないか!元気にしているかい?今何やっているの?」なんて絡んでいけば損する関わりの方が多くなるに決まっている。
 だからこそ来る者拒まず去る者追わずを貫いているわけだ。
 僕に会いに来ようという子は放っておいても連絡をくれて会いに来るし、そうでも無い子は別にこちらから追いかけていって話しかけたり関わりを持ったりする気はない。そもそも気が付いたならそっちが挨拶すれば良い。自分で挨拶もしないで無視されたと騒ぎ立てるような『教育』を僕はしていない。

要するに何が言いたいか… 

 覚えてもらいたいなら、自分をたった一人の存在にするしかない。
 例えば、僕は仕事を辞めて何だかんだと教え子との関わりが逆に増えた。今僕の施設でアルバイトをしてくれている子は全て教え子だ。しかも全員「働かせて欲しい。お手伝いできることがあればやります。」と答えてくれた子だ。
 僕は3年以上持ち上がった子が何人かいるが、未だにうちに通ってくれている子もいるし、たまに連絡をくれる。
 要するに『思い出させる努力をしたか』だと僕は思っている。学校の先生から毎日のように怒られただの、何年も担任をされた何て教師にとっては何千人もいるうちの一人に過ぎない。
 ただ、何年も経った今も年賀状をくれる子やSNSの発信に反応して仕事を手伝ってくれる子は次から次へと『消えない記憶』に放り込まれていく。
 とんでもない『分母』の中であぐらをかいて生活しただけのヤツが「覚えてもらえていない。ショックだ。」と嘆くくらいなら絶対忘れられない関係性を築き続ける方が前向きだ。そもそもそこまでする気も無いのに「ショックだ!」なんて発言することで何だかまるで教師の方が『冷たい人間』のように映る噂話を騒ぎ立てるのはいたって不健全だと僕は思っている。
 特別な経験というヤツや良くも悪くも人にしっかり記憶されていく。何十年も教師をやっている先生に『覚えてもらいたい』と願うならそれに見合う努力をし続けるしかないのだ。
 例えば僕の場合、自分の立ち上げるNPO法人の立ち上げに協力してくれた教え子やバイト終わりにお土産を持ってアッシーに使ってくる教え子、パソコン操作がわからずLINE電話してくる教え子に、突然大学の志望理由書を書く手伝いをさせてくる子などどうやっても忘れないわけだ。そんなヤツ僕の人生に一人しかいないからだ。この世に何千人もいる人の一人よりもこの世に自分しかいない一人になる方がずっと前向きな自分でいられると僕は思う。

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