教育者は『言葉遊び』していてはいけない

遊び・発達

『合理的配慮』って、聞いたことありますか?

みなさんは「合理的配慮」という言葉を知っていますか?

別に難しい言葉じゃないので、大人ならなんとなくイメージは湧くと思います。

今日はその中でも、特別支援教育における「合理的配慮」の話をします。

文部科学省の定義をざっくり言うと、

障害のある子どもが、他の子どもと同じように教育を受ける権利を保障するために、学校が必要で適切な調整や工夫を行うこと

ただし、体制面や財政面で無理のない範囲で

という考え方です。


学校現場で、軽く扱われすぎていないか?

僕は学校を辞めてから、自分が働いていた学校以外に通う子どもや保護者と深く話をする機会が増えました。

そこで正直、かなり驚いていることがあります。

多くの学校で、この「合理的配慮」がかなり雑に扱われていると感じるからです。


「合理的」って、誰の基準?

そもそも、この「合理的」って、誰にとっての合理性なんでしょうか?

僕は、これは一人の教員が背負うものじゃないと思っています。

文科省の定義にもあるように、

  • 体制面(=人手)
  • 財政面(=お金)

ここで過度な負担が出るなら、

それは「合理的ではない」と判断されるのは理解できます。

でも、保護者が求めている配慮の多くは、お金がかからないものなんです。


体制面は「工夫」で変えられる

確かに人手を増やすにはお金が必要です。

しかも、お金をかけたからといって必ず適切な人材が見つかる保証もありません。

でも、体制面を整える方法は人を増やすことだけじゃない

もう一つ、かなり有効な方法があります。


無駄なルール・慣習を見直す

たとえば、発達障害の特性で手先が不器用な子がいます。

文字を枠に収めて書くことにものすごくエネルギーを使う子にとって、

  • ノートを写す
  • 文字で書き残す

これ自体が強いストレスになることがあります。

じゃあ、この場合の「調整」って何でしょう?

  • 書かずに写真で残す
  • 書く量やポイントを絞る
  • プリントを用意する
  • その子だけマス目の大きいノートを使う

いくらでも方法はあります。


それって、その子だけの話?

ここで一度、冷静に考えてほしいんです。

これって実は、どの子にとっても「自分に合った方法がほしい部分」じゃないでしょうか?

僕は「書く学習」を否定していません。

書くことがゼロでいいとも思っていません。

でも、ノートの目的が「学んだ内容を整理して残すこと」なら、どの方法でも目的は達成できるはずです。

しかも今は、多くの学校で一人一台の情報端末が整っています。

体制的にも、財政的にも、もう「無理」とは言いづらい状況です。


「それは合理的じゃない」で終わっていないか?

「それは合理的とは言えない」そう言えば、学校は変更や調整を断ることができます。

でも、それは本当に、

  • その子をしっかりアセスメントして
  • ルールや慣習を見直して
  • やれることをやり切った上での「NO」

なのでしょうか?

そこを飛ばしているなら、それはもう「言葉遊び」になっていると言ってもいいと思います。


時代は止まらない

教育を取り巻く環境は、ここ10年で大きく変わりました。

そして今も、1年後、さらにその先へとどんどん変わり続けています。

この流れは、もう誰にも止められません。

だからこそ、教育者は常に議論し続ける必要がある


僕たち市民が言うべきこと

だから僕は思います。

「もうそんなコスパの悪いことに、大切な先生たちの時間を使わせないで!」

と、市民が声を上げるべきだと。

子どもが安心して過ごせる学校を作りたいなら、そこで働く大人が安心できる環境も必要です。

そのために、「学校に丸投げ」ではなく、自分たちも具体的に動く

それが、本当に大きな一歩になるんじゃないでしょうか。

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