教育者は『言葉遊び』していてはいけない

学校

 みなさんは『合理的配慮』という言葉をご存じだろうか?
 別に難しい言葉ではないので大人ならだいたいのイメージは付くだろう。

3.障害のある子どもが十分に教育を受けられるための合理的配慮及びその基礎となる環境整備:文部科学省

 ちなみに今日の話は特別支援教育における『合理的配慮』の話だ。
 先のページにも書いてある通り合理的配慮とは

「障害のある子どもが、他の子どもと平等に「教育を受ける権利」を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるもの」であり、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」

3.障害のある子どもが十分に教育を受けられるための合理的配慮及びその基礎となる環境整備:文部科学省 (mext.go.jp)より引用

と定義されている。

 僕は学校を辞めてから自分の働いていた学校以外の学校に通う子やその家族と深いお話をさせてもらうことが多くなった。
 だが、多くの学校で今この『合理的配慮』がないがしろにされているようで少し驚いている。

 そもそもこの『合理的』の軸足は誰にあるのか?一教員が背負うものでは無いと思う。上にもある通り『体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担』があるならばそれが『合理的』でないというのならよくわかる。読み取るに『体制面』は人手、『財政面』はお金だと思う。ただ多くの保護者が願う『合理的配慮』はお金がいらないことがほとんどである。
 一方で『体制面』に関しては変更・調整が効くことはたくさんあると思う。もちろん、人手を確保するにはお金が必要だ。逆にお金を使ったって適当な人材が見つかる保障は無い。だが、『体制面』を整えるもう一つの方法がある。

 『無駄なルール・慣習の見直し』だ。
 例えば、発達障害の特性で『手先が不器用』になる子がいる。文字を枠の中に収めて書くことに費やすエネルギーが人一倍かかるとするとノートを写す作業や文字として書き残す作業が苦痛になるというケースが存在する。
 この変更・調整は何だろうと考える。そもそも書かずに写真に収めるという方法もあるし、書く分量やターゲットを絞ることもできる。プリントにしておくことも出来る。ノートのマス目をその子だけ大きくしておくという方法もある。だが、冷静に考えて欲しい。これはそもそもどの子も『自分に合った方法』が欲しい部分ではないだろうか?
 もちろん僕は『書くこと』を否定していない。『書く』学習が全くなくなって良いとも思っていない。『学んだ内容を体系的に手元に残すこと』が目的のノートに関して言えばどれを取っても『目的』が達成できるはずである。今年度多くの学校で『一人一台の情報端末』が小中学生に確保された。『体制的にも財政的にも負担』は無いはずだ。

 『それは合理的とは言えない!』と言えば『学校』は変更・調整を断ることが出来る。でも、それは本当にその子をしっかりアセスメント(客観的に評価)し、ルール設定をきちんと見直し、手を尽くした上での『NO』なのだろうか。それが無いならば、それはもう『言葉遊び』になってしまっていると言っても良いのではないだろうか?
 今時代が大きく変わろうとしている。というより10年前より今、今よりも1年先とどんどん変わっていっている。この変化はもはや誰にも止められない。だからこそ、今『教育者』は常により良い方向を目指して議論する必要がある。

 だからこそ、僕たち市民は「もうそんなコスパの悪いことに大切な先生たちの時間を使わせてあげないで!!」と言うべきだと僕は思う。子どもが安心して過ごせる『学校』が作りたいなら、そこで働く大人の『安心』を作るために自分たちも具体的に動くがまず大きな一歩になるのではないだろうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました