僕は中学2年生の頃、一度結構なボリュームの自分にとってしんどいことがあった。
人の目が嫌になり、誰も信じることが出来ないと感じ、数日間学校を休んでいた期間があった。きっと後にも先にもその頃が一番泣いたんじゃないかと思うくらい泣いた。親にもめちゃくちゃ迷惑を掛けたし、今でも申し訳なかったなと思っている。周りの大人にも随分助けてもらったが正直覚えていないくらいずいぶんダメージの大きな出来事があった。
だが、これは完全に僕の仮説だけれど唯一僕の人生にとってこの時期の出来事が良かったなという方向に繋がっていることがある。
それは、『反抗期』が無くなったということだ。
僕には兄が一人、妹が一人居る。兄はずいぶん自分勝手だった時期があった。あれはまさに『反抗期』だったんだろう。壁を殴って穴を開けたこともあった。でも僕はケンカしたり拗ねたりすることはあっても何だか傍若無人な『反抗期』は無かったと思う。
僕は結婚して家を出るまで兄と二人の部屋だったが、特に困ることは無かった。ほとんどリビングでゴロゴロしていたからだ。犬とゴロゴロしていることもあれば、一人でゴロゴロしてたいていは家族の誰かと喋っていた。
話は変わってこんな記事を読んだ。
この記事を読めば、『反抗期』と『自己肯定感』についてのことがすごく整理出来るのだが、この記事を読んだことでものすごく腹落ちしたことがあったので突然夜にブログを書いているワケだ。
この記事は是非読んで欲しいのだが、こんな言葉で締めくくられている。
彼らの反抗が、「ボクは誰なの?」「ワタシは、大切な存在なの?」という問いそのものだとしたら、親はそれに、答え続けるべきでしょう。「あなたほど大切な人はいない」「あなたを愛している」のだと。もちろん彼らが納得するまで、時間が掛かるかもしれませんが、それをやり続けなければ、反抗期の出口は見えてこないかもしれないのです。
反抗期の影に自己肯定感の危機!親にできること【反抗期を科学する・5】 | ページ 4 | インターエデュ (inter-edu.com)
僕は今思い返しても中学2年の夏から、心の底から「人を信じること」が出来なくなった。
何となく中学、高校、大学辺りに掛けて徐々に収まっては来ているが僕は中高、大学の友だちは圧倒的に少ない。どこかで『裏切られてもさほど傷付かない距離感』で人付き合いをしていた。
だけれど『家族』だけは違った。めちゃくちゃ迷惑を掛けて申し訳無かったという気持ちは今でもあるし、その時に僕が腐っていかないように励まし続けてくれた家族への『感謝』が今でも明確にある。そういう『安心感』が僕に『反抗期』を過ごす余裕を与えてくれなかったのかもしれない。
だけれどあれから22年。僕にはめちゃくちゃ信じることの出来る新たな『家族』がいる。そして、昼間から誰がフラッペを買いに行くか真剣勝負で楽しんでくれる教え子がいる。小学校の友だちとも長いこと会わなかった時期はあったけど時々連絡を取り合うと元気にやっているようで何よりだ。今の仕事を助けてくれる中学の友だちもいるし、通信制大学で教員免許を取った時の仲間も何人かいるし、大人になってからできた友だちも結構いる。僕は『人が好き』な大人になった。
人間というのは一見出口が見えないようなところに迷い込むことはよくある話だ。でも、考えようによっちゃ後々それが原因で『良いこと』が生まれることもある。僕が『家族』を大切にしたいと思えることも、近しい人を『家族』のように大切にする理由はまさにこれなのかもしれない。
この動画でも話されているが、何も焦って『何者か』にならなくても『自分』を大切にこれからも生きていきたい。
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