「自粛警察的な子」は、どこから生まれるのか
コロナ禍で一気に広まった「自粛警察」という言葉。
その後も「〇〇警察」という形で、独自の正義や価値観を振りかざして誰かを取り締まろうとする人たちを指す言葉が定着した。
正直、このネーミング自体、警察に失礼じゃないか…と思わなくもないけれど(笑)、言いたいことは分かる。
実は僕、教員時代にこの「自粛警察的な子どもたち」に何度も出会ってきた。
特別支援学級の担任として、通常学級との交流に入る中でも、同じような場面をたくさん見てきた。
そのたびに僕が繰り返していたのは、「いちばん大切なことって何だと思う?」という問いだった。
そのやり取りを続ける中で、強く感じるようになったのがルール作りと教育の向き合い方のズレだった。
今日は、僕が実際に出会った「自粛警察的な子ども」の姿と、そこから見えてきた「減らし方」について書いてみたい。
誰かを責めたいわけじゃない。
学校や先生を攻撃したいわけでもない。「一緒に考えませんか?」という提案だと思って読んでもらえたら嬉しいです。
「先生、〇〇が…!」は、正義感なのか不安なのか
ある3年生のクラスを担任していた時の話だ。
休み時間に、ものすごい勢いで駆け寄ってきた子がいた。
「先生、〇〇が△△してるねんけど!!」
確かに、その行動はちょっと変わっていた。
でも、誰かが困っているわけでも、危険なわけでもない。ただ、その子の顔は明らかに怒っていた。
「誰か困ってた?」
「いや。」
「嫌な気持ちした?」
「別に。」
「じゃあ、なんでそんなに腹立ってるん?」
「みんなやってないし…」
さらに話を聞いていくと、こんな言葉が出てきた。
「2年生の時に、みんなが好きなことしたら困る人が出てくるって言われたから。あかんと思って…」
なるほど、そういうことか。
そこで僕はこう伝えた。
「今は休み時間やし、ルール違反じゃなければ自由でええんちゃう?誰かが困ったらその時に考えたらいいし、誰かが傷ついたら助けたらいい。ずっと取り締まってたら、みんな疲れるで。」
最初は少し物足りなさそうだったけれど、次の休み時間にはまた一緒に遊んでいた。
こういうやり取りは、その後も何度もあった。そして、だんだん見えてきたことがある。
それは、子どもたちの善悪判断が「自分の中」や「ルール」ではなく、「先生が言ってたかどうか」に寄ってしまっているという事実だった。
教師も人間。だからこそ起きるズレ
もちろん、教師だって人間だ。
体調や忙しさ、その場の状況によって言い方が変わることもある。
昨日はOKだったことが今日は注意される、なんてことも起こり得る。
子どもはその言葉を、時に拡大解釈し、時に曲解する。
「先生が言ってたから正しい」「言われてないからダメ」——そんな判断軸が育ってしまうと、考える力はどんどん外に委ねられていく。
もう一つ気づいたのは、「自粛警察的な子」が増えやすいクラスには、ローカルルールが多いという特徴があることだ。
細かい決まり、暗黙の了解、空気を読むことの強要。抑圧や我慢が積み重なると、子どもたちは考えるより「守る」ことが優先になる。
するとどうなるか。
自分のストレスを、「先生、〇〇が…」という形で誰かにぶつけにいく。
「私だって我慢してるんだから」という気持ちが、行き過ぎた正義を生む。
一方で、教師が取り合わなくなると、今度は「だって自由でしょ?」と判断を失ったまま暴走するケースも出てくる。
それを恐れて、教師がさらにルールで縛り、結果としてルール地獄が出来上がる。誰のためにもならない悪循環だ。
食い止める鍵は「ルール」と「チームワーク」
この「自粛警察増産装置」みたいなコミュニティを作らないために、見直したいポイントは大きく2つある。
一つ目は、ルールの精選。
「起こってはいけないから」というマイナス発想で増えたルールは、子どもに過度な我慢とプレッシャーを与える。そのガス抜きが、子ども同士への取り締まりとして現れることがある。本当に必要なルールだけを残す視点が必要だ。
二つ目は、教師のチームワーク。
「このクラスは私が何とかする」「一人で抱える」文化は、もう限界だと思う。教育は複雑化していて、40人全員に完璧に合う大人なんて存在しない。誰か一人が背負い込む構造こそが、余裕を奪っていく。
心の余裕は、子どもにとっても、大人にとっても本当に大切だ。
学校は、本来その余裕を育てる場所のはずなのに、いつの間にか急かし、縛り、正しさを競う場になっていないだろうか。
もしそれがシステムのエラーなら、きちんと立ち止まって向き合いたい。
子どもが安心して過ごせる場を増やすこと。
それが結果的に、「自粛警察的な子」を減らす一番の近道なんじゃないかと、僕は思っている。


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