『自由』と『混沌』は別次元

教育

 家庭学習応援施設MyPlaceの教育の軸には、『自由』『責任』がある。
 ただ、この『自由』という言葉は子どもによって『何でもあり』『混沌』と勘違いされてしまうことがある。その姿を見て、いかに現代の子どもの文化が『自由』と『責任』の奪われた環境になりやすいかについて考えさせられることがある。

1.『自由』が無ければ他者が見えない

 僕は、教師をしていて思うことがあった。
 学校教育において、日本の子どもたちは『自由』と『責任』について学べる機会が極端に少ないということである。
 コミュニティの中で少しでも他者の意見、下手をすると教師の意見と違った時には秒単位で注意を受けることだってあることも原因のひとつかもしれない。
 たった6~7歳の子どもの時から、座る姿勢から、ノートの使い方手の挙げ方話し方まで矯正されていくわけだ。しかし、その矯正の根っこのほとんどは管理運営上の都合だ。
 そして、最も滑稽なのはこれだけのことをしておいて自我が芽生えた頃に突然教材を持ち出して言い出すのだ。

みんなちがってみんないい』

『教室は間違えるところだ。』

 作者の本当の想いはきっと反映しきれていないのではないかなと思うような環境で。
 これを365日、義務教育の間中、ずっと刷り込まれていった時、『他者の介入があることは不自由』『何でもありの無茶苦茶が自由』と捉えるような子どもが育っていっても不思議では無い気さえしている。
 そんなこんなで、自分の邪魔をしないことが『優しさ』となり、アドバイスしてくれる大人の言葉も『都合よく聞き流す』大人の出来上がりだ。
 日本では『公共の福祉に反しない範囲での自由』は国民に認められている。学校教育できちんとこの    『自由』について学ばせることは、公民性を育てるという観点からも大切なのではないだろうか。人間は『失敗』を繰り返しながら自分なりの良い方法を見つけていく。
 『自由』があるからこそ、自分の振る舞いや他者の存在に目を向けるのではないかと思う。

2.『村八分』の機能

 僕が小学校だったか、中学校の時に学校で「村八分」についての話を聞いたことがある。
 率直な僕の感想は「何が困るんだろう…?」
 僕らの住む現代社会では、他人にどうこう言われたり、相手にされなかったところでそこまで困らない。便利なサービスがどんどん生まれたことによってある程度一人で生きていけちゃうわけだ。
 これ自体はとてもいいことだと思うし、周りに必要以上に気を遣って生きていく必要は無いと思う
 だからと言って、『人を大切に生きること』については確実に子どもの間に学ぶべき内容だとも思っている。
 具体的な『罰』や『ペナルティ』が無ければ『誠実』に過ごせないという人間になってはいけないと思う。
 教師をしている時にもの凄くよく感じたのがこれだ。
 現代の教室に『村八分』のような状況は存在しない。ただ、子どもだって、教師だって『人間』だ。さっきまで周りに散々迷惑を掛けておいて突然『みんな仲良く』なんて割り切れるのは見た目だけだ。
 子どもの人間関係に『教師』や『親』が介入するのは最終手段だと僕は思っている。なぜなら、突然関係ない人間が首を突っ込んできたら誰だって『なんで??』と思うに決まっているからだ。
 ただ、僕が教師をしていた時に、多くの子どもが『先生~!!』と助けを求めに来た。僕の答えは決まっていて「で、何をどうしたいの?」だった。任せておけばあとは全て大人が整えてくれるなんてのは『無責任の極み』だと思う。
 ただ、『村八分』はもう存在しない。(とされている)子どもの文化の中に人の自由を奪う、無責任な行動が横行しても結果的にダメージが少ないが故、正しい『自由』と『責任』を学びにくいのではないだろうか?

3.『自由』と『責任』を学ぶ場

 家庭学習応援施設MyPlaceでは、多くの『自由』を与えている。
 最初に自分のコンセプトを人に話した時にこの『自由』が一番疑われた。
 「うちの子どもには、『自由』は無理。」という意見を何度も耳にした。
 でも、僕はこの『自由』を正しく与えてやることが一番成長に繋がると信じているし、教育者としてたくさんの子どもと出会った経験からも子どもたちが少しずつ変化する時には、決まってこの『自由』が手渡されている時だった。

 もちろん、放ったらかしでは良いとは思っていない。
 特に中学生には、いつも手を変え、品を変え声を掛け続けている。学習内容やペースは『自由』であるからこそ、その『責任』が子どもたち自身に託されるのである。ただ、余りにも投げ掛けを無視し続けるような姿勢であれば「申し訳ないけれど利用を停止してください。」ということだってこちらから提案することが出来る。『自由』があるが故、自分から動かなくてはならない『責任』が生まれるのである。
 学校で働いている時にはその『選択』は僕には無かった。
 どんなに『ルール』や『マナー』を逸脱したって『反省した顔』をしていれば繰り返していようと「来るな!!」なんて言えない。だからこそ、学校という場所では、伝わらない子にはこれっぽっちも伝わらずに終わることだってたくさんあった。もしかするとその子に合った投げ掛けのできる人が居ても、僕が担任ならどうやったって僕の指導を受けなくてはいけない。その子にとっても大きな損失かもしれない。

 『自由』に向き合い、自分の行動に『責任』を持つ。サボれば自分が損をするし、頑張れば結果が付いてくる。子どもがそれを実感するにはもってこいの場所をこれからも育てていきたいと僕は思っている。

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