僕は「教育者」であり「父親」でもある
僕は、教育者として生きている自分と、父親として生きている自分の両方を持っています。
できるだけこの2つの視点にズレが出ないようにしたい。
そう思ってはいるけれど、正直に言えば、やっぱり少し違う。
だからこそ、僕は定期的に自分の考えや選択を疑うようにしています。
- これは父親の感情が強く出すぎていないか?
- 教育者としての立場から離れすぎていないか?
- 今、自分の軸足はどこに置いているのか?
この確認を、わりと意識的にやっています。
今の時代、感情だけでは支えきれない
なぜこんなことをしているかというと、もう今の時代の教育や子育ては、感情や情熱だけでは上手く支えられなくなってきていると感じているからです。
親の「心配」教育者の「正しさ」
この2つをそのままぶつけてしまうと、子どもたちにとってはありがた迷惑になってしまうこともある。
だから僕は、感情や想いを一度分解しながら言葉を選ぶようにしています。
親として、どうしても邪魔になるもの
子育てをしていて思うのは、
一番邪魔になるのは、やっぱり子を想う感情です。
もちろん、
感情を持たずに子育てなんてできません。
- 頑張っていたら「すごいな」「応援したい」と思う
- 良くないことをしたら腹も立つ
それは当たり前です。
でも後から、
「あ、今のは感情が先に出たな…」
と反省することも多い。
判断の基準は、だいたい自分の過去
親としての判断って、だいたい自分の経験から来ていることが多いです。
- 自分が知らない世界 → 不安になる
- 自分が失敗したこと → 子どもにさせたくない
これもすごく自然なこと。
でも、そこには時代の変化がちゃんと反映されていないことが多い。
インターネットを前提に考えているか?
一番わかりやすいのが、インターネットの存在です。
今は、スポーツも、ゲームも、勉強もネットの中に無数の先生がいます。
それでも「やらない」「動かない」なら、それは昔の「勉強しない」とはレベルが違う話だと思っています。
情報が無いから出来ない、ではなく、情報がありすぎて動けない時代です。
選択肢が増えた時代に生きている
今は、「とりあえず近所の公立高校・普通科」が当たり前だった時代とは完全に違います。
文部科学省のこんなページもあります。
動く子は、もう中学生の段階からどんどん動いて自己実現を目指しています。
この現実を知らずに昔の感覚だけで声をかけると、ズレが生まれるのは当然だと思っています。
教育者として、言わない選択をする理由
一方で、教育者としての僕にできることには限界があります。
自分の中で「これは絶対に正しい」と思っていても、あえて言わないことも多い。
なぜなら、僕はその子の家族ではないし、本人でもないからです。
「正しさ」は時に人を傷つける
たとえば、
「殴るのはいけないことだ」と伝える場面。
社会のルールとしては正しい。
でも、その子の家庭環境によっては、
- 暴力が当たり前だった
- それが「指導」や「しつけ」だった
そんな背景があるかもしれない。
そこを無視して
「ダメだ」「NOだ」とだけ伝えると、
逆に深く傷つけてしまうこともあります。
点ではなく、線で伝える教育
だから僕は、教育を点ではなく、できるだけ線で伝えたいと思っています。
- その子自身
- その子の背景
- これまでの環境
それを知らずに放つ言葉は、正しくても届かないことがある。
親として、教育者として、問い続けたい
「自分と同じ思いをさせたくない」「自分が感じた感動を味わってほしい」
親として自然な気持ちです。
でも、その親が提示する選択肢が、子どもにどんな影響を与えるのか。
これからも僕は、その問いを手放さずに生きていきたいと思っています。


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