僕は『教育者』であり、『父親』として生きている。2つ視点は出来るだけ差が出ないようにとは思いつつもやはり微妙に違ってくる。だからこそ、僕は定期的に自分の『考え』や『選択』を疑うようにしている。我が子に対して行っているつもりのアドバイスが『父親』という感情に流されすぎていないか?逆に他人の子どもを『教育者』から離れた視点でアドバイスしていないか?いつも自分の『軸足』がどこにあるかは確認する癖を付けている。
なぜなら、そうしておかないともう現代の『教育』も『子育て』も上手くサポート出来なくなっているのではないかなと思っているからである。子どもたちへのアドバイスは親の『感情』や教育者としての『情熱』とは少し分解しながら行わないとこれからの社会に巣立つ子どもたちへは『ありがた迷惑』になってしまい兼ねないと気を付けている。
親として感じること
やはり、『子育て』において邪魔になるのは子を想う『感情』だと思う。
もちろん、『感情』を持たずに子育てなんて出来ないに決まっている。僕だって子どもが一生懸命頑張っていれば「すごいなぁ!頑張れ!」と応援する気持ちを持つし、子どもが良くないことをすれば「ダメだ!」と腹を立てることもある。ただ、そうは言っても反省するような時も大いにある。
では、そういう時の基準になっているのは何か?
やはり自分の経験から来ることが多くある。知らないことはついつい不安になってしまうことだってあるし、自分が失敗してしまったことは少し心配になることもある。ズタズタに傷ついてしまうことの無いように口出ししてしまうことは『親心』なのだろうが、そこには時代の変化を反映しきれていないことが多い。
わかりやすい例で言えばやはり『インターネット』の登場をきちんと頭に置いているかどうかはいつも気を付けるようにしている。スポーツにしてもゲームにしても、はたまた勉強にしても『インターネット』の世界の中には無数の先生が存在している。それでもやらない。行動しない。は昔の子どもが勉強しないよりも遥かに腰が重い状態だと考えるべきだからだ。
一方で多様な選択肢が見える時代になったことも一つの影響かもしれないと考えている。
例えば、文部科学省のHPに次のような特集ページが組まれていた。
これは、「とりあえず近所の公立高校普通科!」がほとんどの子どもの選択肢だった僕の中学3年生の時代とは確実に変わっており、動く子はすでにどんどん動いて自己実現を図ろうとしていることを伝えてくれている。
教育者として感じること
また、『教育者』として僕ができるアドバイスには限りがある。
自分としては絶対に正しいと思うことであっても敢えて言わない選択肢を取ることも多々ある。なぜなら僕はその子の『家族』では無いし、『本人』では無いからだ。
どれだけコミュニケーションを密に取ることを心掛けていても、その子の『家族』にはなれないのだ。
例えば、『殴ることはいけないことだ!』と指導するにしても「この社会、このコミュニティーで生きていくためには暴力はいけない。」と説いたとしたってその子がいざという時に暴力による『指導』『躾』が行われていた場合、中途半端な伝わり方をすれば傷付けてしまう可能性もある。単なる『NO』だけを突き付ける行為は逆効果になることもある。
だからこそ、以前にも書いたような僕は『教育』を『点』では無く、可能な限りその子やその背景を知り『線』で伝える指導を心掛けている。
自分と同じ想いをさせない為にだとか、自分の感じた感動を感じてもらう為にという『親の提示する選択肢』が子どもにとってどんな影響を与えるかについてこれからも視点を持って生きていきたい。
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