僕は科学的な根拠があるのかという視点は教育にも必要だと思っている。これを教えてくれたのは間違いなく僕の教育観の基礎を磨いてくれた『子どもの発達科学研究所』の影響が大きい。
そもそもの出会いは、僕が教師4年目の年、何となくこれまでの『教育』に限界を感じていた時だった。決してそれまでの3年が良くないと言うのでは無い。4年生から6年生までの3年間を共に過ごし卒業生を送り出したこともあり、それまでの自分のやり方と周りの先生とのやり方の違いを自分の中で整理してもっと力のある『教師』になりたいと願って、研究所の研修を志願したのだった。
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ここでの『学び』は僕のそれまでの『教育』で足りていない部分を大きく埋めてくれた。特別支援教育を学び直し、自分に関わる全ての教育活動にそのエッセンスを入れ込んだ。
『科学と愛情や情熱はどちらも一緒に提供することが可能です。』
この言葉を聞いて少しハッとした。僕自身もそれまで『科学的に』とか『統計的に』と言われると「何だか冷たいな。」とか「目の前の子どもを見ろ!」みたいに思っていたが、自分が勉強すればするだけ『科学』と『愛情』は共存するし、そもそも『教育』における『愛情』は子どもに教えることに『責任』を持つということなのだと感じるようになった。
発達障害の診断数は増え、支援の必要な子どもの数が多いことに対して「いやいやこのクラスにはそういう配慮のいる子は他にも多数いるんで全員は対応できません。」と平気で答える教育者がまだいるようだが、それは間違いだ。
たまに「いやぁ、発達障害って最近増えてるとか言うけど昔だってそういうちょっと変わったいたよね。甘やかしていていいの?」という驚くべきことを言う人もいる。実際に昔はまだ発達障害という分野が発見されて日が浅く、医療機関や療育機関の整備もされてはいなかった。しかし、その子たちが配慮の無い指導や教育に『抱えていた苦痛』は誰も知らない。
眼鏡があることによって救われた人、補聴器があることによって救われた人、盲導犬や車いす、義足に義手、多くの人が『科学』や『技術』の進歩によってより自分の望んだ人生を歩むことのできる可能性を広げている。外から見えにくい『困り』を環境や仕組みを調整して軽減できる方法があるなら僕はそっちを選びたいと思っている。
教師の仕事をしていると、「発達検査を受けることで子どもが傷つかないか心配で…」という悩み打ち明けられることがよくあった。僕はいつも「目が見えにくい子には黒板の近くで勉強することや眼鏡をすることで授業の質が変わります。目に見えにくいその子の得意や苦手を整理してより良い関わりがわかることで不要な叱責や指導を避けられる可能性が少しでも上がるならお守り代わりに知っておくことは子どもにも家族にも先生にも悪い話ではないでのはないでしょうか?」と伝えるようにしていた。所詮検査や診断はその子を知るための1つの手がかりに過ぎない。ただ、『科学の力』を借りることで明るくなる未来はあると僕は信じている。
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